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Girls 45

The Ronettes - (The Best Part Of) Breakin' Up / Big Red

1964 USA Original 45rpm Record [PHILLES/120]

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PHILLESレーベル及び、60年代のガールズポップを代表するニューヨーク出身の黒人ガールズ・ポップ・グループ/ザ・ロネッツが、1964年4月にPHILLESレーベルからリリースしたシングルです。

フィル・スペクター・プロデュースによる作品です。


Phil Spector

ビルボードホット100チャートで39位、キャッシュボックスチャート48位、英国シングルチャートで43位を記録しました。この年は、グループが最も成功した年として広く認知されており、米国でグループにとっての3番目となる連続トップ40ヒットとなっています。



フィル・スペクター、ピート・アンドレオーリ、ヴィニ・ポンシアによって書かれた曲です。




ジャック・ニッチェによるアレンジメントで、バッキングコーラスには、エステル・ベネットとネドラ・トーリーに加え、ダーレン・ラヴ&ザ・ブロッサムズ、ボビー・シーン、ソニー&シェールが参加しました。



1964年はブリティッシュインベーションの影響により、1950年代後半から1960年代前半の以前のアメリカ人グループの多くは人気が深刻に低迷していましたが、ロネッツにとっては最高の年となりました。しかし、グループのリードシンガーであるロニー・スペクターによると、プロデューサーのフィル・スペクターは1964年の初めにはロネッツへの熱意を失っていたそうです。



1964年の初めに、フィル・スペクター、ジェフ・バリー、エリー・グリニッジが書いた曲「チャペル・オブ・ラヴ」がロネッツで録音予定でしたが、スペクターが「ヒットするとは思えない」という理由から拒否され、結局「チャペル・オブ・ラヴ」はザ・ディキシー・カップスが録音し、ビルネットのトップ100チャートでナンバー1を記録しました。そして「チャペル・オブ・ラヴ」で失策した後、スペクターはロネッツの「ブレイキン・アップ」の制作にに取り組みました。ロニー・スペクターによると、フィル・スペクターは本作のレコーディングに何日も費やし、特にこの曲に熱心であったそうです。



1968年、ザ・シンボルズによるカバーが英国シングルチャートで25位に達しました。



1982年、ロニ・グリフィスによるカバーがダンスチャートで2週間2位に達しました。



1989年、ザ・デヴィル・ドッグスがデビューアルバムでカバーしました。



裏面はインストゥルメンタル・ジャズです。


コンディション:VG+/VG++/RW
マトリックス番号RONETTES 15 / BACK SIDE 10

アーティスト【ザ・ロネッツ】



ガールズ・ポップ・グループ。ヴェロニカ・ベネット(Veronica Bennett:後にロニー・スペクター(Ronnie Spector)に改名) と、彼女の姉妹のエステル・ベネット(Estelle Bennett)と、いとこのネドラ・トーリー(Nedra Talley)ら3人により、1961年頃にニューヨークで結成されたザ・ダーリング・シスターズ(The Darling Sisters)が前身となる。グループ結成後、間もなくザ・ロネッツ名義でCOLPIX, MAYレーベルと契約し、1963年までポップスの名人ステュ・フィリップス制作により数曲の録音を残した。その後に新進気鋭のプロデューサー/フィル・スペクターと出会い、彼が所有したPHILLESレーベルと契約に至る。1963年にリリースされた彼女達の1枚目のシングル「Be My Baby」はナショナルヒットを記録し、続く「Baby, I Love You」や「(The Best Part Of) Breakin' Up」、「Do I Love You?」、「Walking In The Rain」、「Born To Be Together」等を次々にヒットさせ、一躍同レーベルを代表する看板グループとして台頭した。同レーベルでは1966年まで合計8枚のシングルを残している。また、髪の毛を盛り上げた「ビーハイヴヘア」や、目を吊り上げる「アイライン」メイク、そして「タイトスカート」という、不良少女スタイルを売りにし、ファッションリーダーとしても影響力を持った。1960年代のガールグループを象徴する、アイコニックな存在として君臨した。
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