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Girls 45

The Ronettes - Be My Baby / Tedesco & Pitman

1963 USA Original 45rpm Record [PHILLES/116]

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PHILLESレーベル及び、60年代のガールズポップを代表するニューヨーク出身の黒人ガールズ・ポップ・グループ/ザ・ロネッツが、1963年8月にPHILLESレーベルからリリースしたシングルです。

フィル・スペクター・プロデュースによる作品です。


Phil Spector

ビルボード・ホット100チャートで最高2位、ビルボード・R&Bチャートで最高4位、USキャッシュボックスチャートで最高1位、カナダのCHUMチャートで最高2位、全英シングルチャートで最高4位を記録しました。1999年にグラミー賞の殿堂入りを果たしました。2004年にローリングストーン誌の「史上最も偉大な曲500」のリストで22位にランクされ、「ザ・ビートルズやブライアン・ウィルソンなどのスタジオの先駆者にとってのロゼッタ・ストーン」と評されました。2021年版の同リストでも22位にランクされました。2006年にピッチフォークの「1960年代の最も偉大な曲200曲」のリストで6位にランクされました。2011年にタイム誌の「オールタイム100ソング」のリストに選ばれました。2014年にNMEの「1960年代のベストソング100」のリストで第2位にランクされました。2017年にビルボードの「史上最も偉大なガールズグループソング100」のリストで1位になりました。2006年に米国議会図書館は米国国立録音登録簿に登録しました。



1963年の初めに、スペクターは、ヴェロニカ(別名ロニー)とエステル・ベネット姉妹、そしていとこのネドラ・タリーで構成されたボーカル・グループ・トリオ、ロニー・アンド・ザ・リレイティブズ/ザ・ザ・リレイティブズのオーディションを受けました。そこで1956年のフランキー・ライモン&ザ・ティーネイジャーズのヒット曲「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォール・イン・ラブ」の即興演奏におけるロニーのリードボーカルに感銘を受けたスペクターは、グループにオリジナル曲「ホワイ・ドント・ゼイ・レット・アス・フォール・イン・ラブ」をレコーディングすることを提案しました。彼女達はゴールド・スター・スタジオでこの曲を録音しましたが、スペクターはグループがステージでの演技を洗練させるにはもっと時間が必要だと感じたため、リリースを差し控えました。スペクターは結婚問題に苦しんでいましたが、この頃ロニーにロマンチックな執着を抱くようになりました。なので、スペクターは、ロニーへの増大する感情を明確に宣言するつもりで『ビー・マイ・ベイビー』を作ったのではないかと推測されています。



ロサンゼルスにあるスペクターのオフィスでフィル・スペクター、ジェフ・バリー、エリー・グリニッジによって曲が書かれました。


Jeff Barry & Ellie Greenwich

ゴールド・スター・スタジオでレコーディングが行われ、ジャック・ニッチェが編曲し、ラリー・レヴァインがエンジニアを担当しました。


[Gold Star Studio] 6252 Santa Monica Boulevard Los Angeles, California, U.S.


Jack Nitzsche

スペクターは、後に「レッキング・クルー」として知られる事実上のハウス・バンドとともに、ゴールド・スター・スタジオで「ビー・マイ・ベイビー」をプロデュースしました。これは彼がフルオーケストラを使って録音した初めてのことであり、この曲は彼の「ウォール・オブ・サウンド」録音技術の典型的な例とみなされています。この時スペクターは「これまでで最も壮大な作品を作ろうと決意」し、ゴールド・スター・スタジオの全部隊、つまりピアノ、ギター、金管、弦楽器の大隊、バックシンガーの全連隊を招集したと伝えられています。



スペクターは完璧主義のため、バンドはテープレコーダーの電源を入れる前にスタジオでこの曲を4時間リハーサルしたそうです。バッキング・トラックが完成してから1日以内に、当時18歳のロニー・スペクターがスタジオに招きリードボーカルをオーバーダビングしました。ザ・ロネッツの他のメンバーはセッションに参加しておらず、コーラスはソニー&シェールとして有名になるソニー・ボノとシェール他が参加しました。


Sonny & Cher

レッキング・クルーのミュージシャン、ハル・ブレインは「ビー・マイ・ベイビー」でドラムを演奏していますが、ハル・ブレインが演奏した冒頭のドラムビートはニッチェが提案したものだとされています。しかし、ブレインは「あの有名なドラムのイントロは事故だった。私は2拍目と4拍目のスネアを弾くはずだったのに、スティックを落としてしまった。当時の私はフェイカー(偽りの見せかけをする人)だったので、間違いを訂正せずそのままにしておくと、「ブンバブンブン!」というリズムになった。そしてすぐにスタジオにいた誰もがそのビートを求めた。」と語っています。このように生まれた、ポップ・ミュージックで最も有名になったハル・ブレインのドラム・フレーズは、後に多くのミュージシャンによって複製または再作成されました。


Hal Blaine

この曲は多くのアーティストに影響を与えましたが、特に注目に値するのは、ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが「ビー・マイ・ベイビー」への応答として、1964年のヒット曲「ドント・ウォーリー・ベイビー」を書いたことです。


Brian Wilson



1963年、ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは恋人のマリリンとドライヴをしている時、カーラジオから流れてきた『ビー・マイ・ベイビー』に衝撃を受け、その場で車を路肩に停車して曲に聴き入り、同時に「ザ・ビーチ・ボーイズにはこんな凄い曲はできない」と一抹の不安を覚えたといいます。彼は当初、ザ・ロネッツのために「ドント・ウォーリー・ベイビー」を書きスペクターに提案しましたが、スペクターは自作曲以外は制作しないという方針だったので却下されました。後のインタビューで、ブライアン・ウィルソンは、「『ビー・マイ・ベイビー』は史上最高のポップ・レコードだ。議論の余地はない。」と述べています。その時の興奮を以下の動画のインタビューでも赤裸々に話しています。



『ビー・マイ・ベイビー』は、現代ポップ・ミュージックのグラウンド・ゼロとなりました。それはポップ・ミュージックが本格的なアメリカの芸術形式となった始まりだった、と評価される名作中の名作です。

1970年にアンディ・キムのバージョンはビルボード・ホット100チャートで17位、ビルボード・イージーリスニングチャートで24位に達しました。



1972年にジョディ・ミラーのバージョンはビルボード・カントリーチャートで15位、ビルボード・イージーリスニングチャートで35位に達しました。



1976年にショーン・キャシディのバージョンは西ドイツで39位に達しました。



1992年にティーン・クイーンズのバージョンはオーストラリアのARIAシングル・チャートで6位になりました。



2013年にレスリー・グレースのバージョンはビルボード・ホットラテンチャートで最高8位、トロピカルチャートでは最高6位を記録しました。



裏面は、B面誇示用の無意味なジャズ・インストゥルメンタル作品です。

コンディション:VG(-)/VG-/WOL/RW
マトリックス番号:45-RONETTES-1 △ 48779 / Backside #2 Phil + Annette Audio Matrix

 

アーティスト【ザ・ロネッツ】



 

ガールズ・ポップ・グループ。ヴェロニカ・ベネット(Veronica Bennett:後にロニー・スペクター(Ronnie Spector)に改名) と、彼女の姉妹のエステル・ベネット(Estelle Bennett)と、いとこのネドラ・トーリー(Nedra Talley)ら3人により、1961年頃にニューヨークで結成されたザ・ダーリング・シスターズ(The Darling Sisters)が前身となる。グループ結成後、間もなくザ・ロネッツ名義でCOLPIX, MAYレーベルと契約し、1963年までポップスの名人ステュ・フィリップス制作により数曲の録音を残した。その後に新進気鋭のプロデューサー/フィル・スペクターと出会い、彼が所有したPHILLESレーベルと契約に至る。1963年にリリースされた彼女達の1枚目のシングル「Be My Baby」はナショナルヒットを記録し、続く「Baby, I Love You」や「(The Best Part Of) Breakin' Up」、「Do I Love You?」、「Walking In The Rain」、「Born To Be Together」等を次々にヒットさせ、一躍同レーベルを代表する看板グループとして台頭した。同レーベルでは1966年まで合計8枚のシングルを残している。また、髪の毛を盛り上げた「ビーハイヴヘア」や、目を吊り上げる「アイライン」メイク、そして「タイトスカート」という、不良少女スタイルを売りにし、ファッションリーダーとしても影響力を持った。1960年代のガールグループを象徴する、アイコニックな存在として君臨した。