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Girls 45

The Ronettes - Be My Baby / So Young (Re-Issue)

1986(1963&1964) USA Re-Issue 45rpm Record [COLLECTABLES/COL 3205]

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PHILLESレーベル及び、60年代のガールズポップを代表するニューヨーク出身の黒人ガールズ・ポップ・グループ/ザ・ロネッツが、1963年8月にPHILLESレーベルからリリースした作品の、1986年COLLECTABLESレーベル・リイシュー・シングルです。

フィル・スペクター・プロデュースによる作品です。


Phil Spector

ビルボード・ホット100チャートで最高2位、ビルボード・R&Bチャートで最高4位、USキャッシュボックスチャートで最高1位、カナダのCHUMチャートで最高2位、全英シングルチャートで最高4位を記録しました。1999年にグラミー賞の殿堂入りを果たしました。2004年にローリングストーン誌の「史上最も偉大な曲500」のリストで22位にランクされ、「ザ・ビートルズやブライアン・ウィルソンなどのスタジオの先駆者にとってのロゼッタ・ストーン」と評されました。2021年版の同リストでも22位にランクされた。2006年にピッチフォークの「1960年代の最も偉大な曲200曲」のリストで6位にランクされました。2011年にタイム誌の「オールタイム100ソング」のリストに選ばれました。2014年にNMEの「1960年代のベストソング100」のリストで第2位にランクされました。2017年にビルボードの「史上最も偉大なガールズグループソング100」のリストで1位になりました。2006年に米国議会図書館は米国国立録音登録簿に登録しました。



1963年の初めに、スペクターは、ヴェロニカ(別名ロニー)とエステル・ベネット姉妹、そしていとこのネドラ・タリーで構成されたボーカル・グループ・トリオ、ロニー・アンド・ザ・リレイティブズ/ザ・ザ・リレイティブズのオーディションを受けました。そこで1956年のフランキー・ライモン&ザ・ティーネイジャーズのヒット曲「ホワイ・ドゥ・フールズ・フォール・イン・ラブ」の即興演奏におけるロニーのリードボーカルに感銘を受けたスペクターは、グループにオリジナル曲「ホワイ・ドント・ゼイ・レット・アス・フォール・イン・ラブ」をレコーディングすることを提案しました。彼女達はゴールド・スター・スタジオでこの曲を録音しましたが、スペクターはグループがステージでの演技を洗練させるにはもっと時間が必要だと感じたため、リリースを差し控えました。スペクターは結婚問題に苦しんでいましたが、この頃ロニーにロマンチックな執着を抱くようになりました。なので、スペクターは、ロニーへの増大する感情を明確に宣言するつもりで『ビー・マイ・ベイビー』を作ったのではないかと推測されています。



ロサンゼルスにあるスペクターのオフィスでフィル・スペクター、ジェフ・バリー、エリー・グリニッジによって書かれた曲です。


Jeff Barry & Ellie Greenwich

ゴールド・スター・スタジオでレコーディングが行われ、ジャック・ニッチェが編曲し、ラリー・レヴァインがエンジニアを担当しました。




[Gold Star Studio] 6252 Santa Monica Boulevard Los Angeles, California, U.S.

スペクターは、後に「レッキング・クルー」として知られる事実上のハウス・バンドとともに、ゴールド・スター・スタジオで「ビー・マイ・ベイビー」をプロデュースしました。これは彼がフルオーケストラを使って録音した初めてのことであり、この曲は彼の「ウォール・オブ・サウンド」録音技術の典型的な例とみなされています。この時、スペクターは「これまでで最も壮大な作品を作ろうと決意」し、ゴールド・スター・スタジオの全部隊、つまりピアノ、ギター、金管、弦楽器の大隊、バックシンガーの全連隊を招集したと伝えられています。



スペクターの完璧主義のため、バンドはテープレコーダーの電源を入れる前にスタジオでこの曲を4時間リハーサルしたそうです。バッキング・トラックが完成してから1日以内に、当時18歳のロニー・スペクターのリードボーカルをオーバーダビングしました。ザ・ロネッツの他のメンバーはセッションに参加しておらず、コーラスはソニー・ボノとシェール他が参加しました。


Sonny & Cher

レッキング・クルーのミュージシャン、ハル・ブレインは「ビー・マイ・ベイビー」でドラムを演奏していますが、ハル・ブレインが演奏した冒頭のドラムビートはニッチェが提案したものだとされています。しかし、ブレインは「あの有名なドラムのイントロは事故だった。私は2拍目と4拍目のスネアを弾くはずだったのに、スティックを落としてしまった。当時の私はフェイカーだったので、間違いをそのままにしておくと、「ブンバブンブン!」ということになりました。そしてすぐに誰もがそのビートを求めた。」と語っています。後に多くのミュージシャンが、ポップ・ミュージックで最も有名になったハル・ブレインのドラム・フレーズを複製または再作成しました。


Hal Blaine

この曲は多くのアーティストに影響を与えましたが、特に注目に値するのは、ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが「ビー・マイ・ベイビー」への応答として、1964年のヒット曲「ドント・ウォーリー・ベイビー」を書いたことです。


Brian Wilson



1963年、ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは恋人のマリリンとドライヴをしている時、カーラジオから流れてきた『ビー・マイ・ベイビー』に衝撃を受け、その場で車を路肩に停車して曲に聴き入り、同時に「ザ・ビーチ・ボーイズにはこんな凄い曲はできない」と一抹の不安を覚えたといいます。彼は当初、ザ・ロネッツのために「ドント・ウォーリー・ベイビー」を書きスペクターに提案しましたが、スペクターは自作曲以外は制作しないという方針だったので却下されました。後のインタビューで、ブライアン・ウィルソンは、「『ビー・マイ・ベイビー』は史上最高のポップ・レコードだ。議論の余地はない。」と述べています。



『ビー・マイ・ベイビー』は、現代のポップ時代のグラウンド・ゼロとなりました。それはポップ・ミュージックが本格的なアメリカの芸術形式となった始まりだったと評価される名作中の名作です。

1970年にアンディ・キムのバージョンはビルボード・ホット100チャートで17位、ビルボード・イージーリスニングチャートで24位に達しました。



1972年にジョディ・ミラーのバージョンはビルボード・カントリーチャートで15位、ビルボード・イージーリスニングチャートで35位に達しました。



1976年にショーン・キャシディのバージョンは西ドイツで39位に達しました。



1992年にティーン・クイーンズのバージョンはオーストラリアのARIAシングル・チャートで6位になりました。



2013年にレスリー・グレースのバージョンはビルボード・ホットラテンチャートで最高8位、トロピカルチャートでは最高6位を記録しました。



裏面は、1964年4月にヴェロニカ(Veronica)名義でPHIL SPECTORレーベルからリリースされた作品のカップリングです。



1958年にR&B・グループ、ザ・スチューデンツが発表したドゥーワップ・バラードのカバーです。





オリジナル・カンパニースリーブ付きです。

コンディション:NM/NM/RI
マトリックス番号:COL-3205-A / COL-3205-B

アーティスト【ザ・ロネッツ】



ガールズ・ポップ・グループ。ヴェロニカ・ベネット(Veronica Bennett:後にロニー・スペクター(Ronnie Spector)に改名) と、彼女の姉妹のエステル・ベネット(Estelle Bennett)と、いとこのネドラ・トーリー(Nedra Talley)ら3人により、1961年頃にニューヨークで結成されたザ・ダーリング・シスターズ(The Darling Sisters)が前身となる。グループ結成後、間もなくザ・ロネッツ名義でCOLPIX, MAYレーベルと契約し、1963年までポップスの名人ステュ・フィリップス制作により数曲の録音を残した。その後に新進気鋭のプロデューサー/フィル・スペクターと出会い、彼が所有したPHILLESレーベルと契約に至る。1963年にリリースされた彼女達の1枚目のシングル「Be My Baby」はナショナルヒットを記録し、続く「Baby, I Love You」や「(The Best Part Of) Breakin' Up」、「Do I Love You?」、「Walking In The Rain」、「Born To Be Together」等を次々にヒットさせ、一躍同レーベルを代表する看板グループとして台頭した。同レーベルでは1966年まで合計8枚のシングルを残している。また、髪の毛を盛り上げた「ビーハイヴヘア」や、目を吊り上げる「アイライン」メイク、そして「タイトスカート」という、不良少女スタイルを売りにし、ファッションリーダーとしても影響力を持った。1960年代のガールグループを象徴する、アイコニックな存在として君臨した。
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