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Sixties 45

The Beatles - The Ballad Of John & Yoko / Old Brown Shoe

1969 USA Original 45rpm Record [APPLE/2531]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1969年5月30日にAPPLEレーベルからリリースしたシングルです。ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品で、ビルボード・ホット100チャートで最高8位、USキャッシュボックスチャートで最高10位、カナダのRPMチャートで最高7位、UK OCCシングルチャートで最高2位を記録しました。ローリングストーン誌は「ビートルズの偉大な曲100曲」のリストで48位にランク付けしました。

George Martin

1969年5月にアルバム未収録のシングルとしてリリースされ、その後『ヘイ・ジュード』などのコンピレーション・アルバムに収録されました。曲はジョン・レノンによって書かれ、ジョン・レノンとマッカートニーのパートナーシップの功績とされています。レノンとオノ・ヨーコの結婚式にまつわる出来事を歌った内容です。米国では、歌詞がキリストと磔刑(たっけい:古代の地中海地域において広く行われた処刑の形態)に言及しているため(コーラスに「キリスト」と「十字架につける」という言葉が使用されている)、一部のラジオ局で放送禁止になりました。また、1969年にレノンとマッカートニーの関係が険悪になったという一般的な報道がありましたが、セッションテープからは、2人の素晴らしい才能、ユーモア、音楽的理解、団結力が最初から最後まで輝いていたため、その噂は懐疑的にみられる節もあります。

裏面はチャート入りしておりませんが、ギター・ワールドは「ビートルズの偉大なギターの瞬間50」のリストで28位にランク付けされています。

リードギタリストであるジョージ・ハリスンによって書かれた曲で、こちらもアルバム未収録作品です。曲はその後コンピレーションアルバム『ヘイ・ジュード』と『パスト・マスターズ.2』に収録されました。歌詞は二元論的なテーマを扱っており、リズムの一部はジャマイカのSKAスタイルになっています。ハリソンの燃えるようなギターソロは大胆で、驚くべき流動性とコントロールで上がったり下がったりするパフォーマンスだと評されています。

コンディションVG++/VG++
マトリックス番号S45-46865-A3 / S45-46866-B2

アーティスト【ザ・ビートルズ】









ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。