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Sixties 45

The Beatles - She Loves You / I'll Get You

1963 USA Original 45rpm Record [SWAN/S-4152-S]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、イギリスでは1963年8月23日にUK PARLOPHONEレーベルから最初にリリースした作品で、アメリカでは1963年9月16日にSWANレーベルからリリースされました。ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品で、ビルボード・ホット100チャートで2週連続1位、9月14日にUKシングルチャートで1位を記録しました。2004年11月、ローリングストーン誌が選ぶ「ザ・500・グレーテスト・ソングス・オブ・オール・タイム」で64位に選定されました。アメリカではアルバム『セカンド・アルバム』の最後の曲でした。

George Martin

ジョン・レノンとポール・マッカートニーによって書かれた歌で、1963年6月26日にロイ・オービソンと、ジェリー&ザ・ペースメーカーとのツアー中に、ニューカッスルアポンタインのマジェスティックボールルームでコンサートを行った後、「シー・ラヴズ・ユー」の作曲を開始しています。彼らはツアーバスで歌を書き始め、その夜遅くニューカッスルのホテルでも作業を続けており、翌日、リバプールのフォースリンロードにあるポールの家族の家でそれを完成させました。2000年、ポールは、曲の最初のアイデアは、ボビー・ライデルのヒット「フォーゲット・ヒム」からインスピレーションを受けて始まった、と述べています。言われてみれば、メロディーが似ていますね。



ジョン・レノンによると、曲中で聴ける「イェー!イェー!イェー!」はエルヴィス・プレスリーの「オール・シュック・アップ」からのインスパイアで、「ホ~!」のシャウトは、ジ・アイズレー・ブラザーズの「ツイスト&シャウト」からのインスパイアだそうです。これらのリフレインは、音楽的なフックとして即座に伝染性がある事が証明されました。

録音は1963年7月1日に2トラックの録音機を使用してレコーディングされ、ミキシングは7月4日に行われました。アレンジは、ドラムのリンゴからの2カウントから始まり、彼のフィルはレコード全体の重要な部分です。電気楽器、特にマッカートニーのベースは以前よりも高くミックスされ、レコードが提供する音楽的なパワーの感覚を増しています。リードボーカルはレノンとマッカートニーが歌い、ユニゾンとハーモニーを切り替えます。

ジョン・レノン&ポール・マッカートニー作によるストレートなロックンロール・ナンバーで、勢いのある演奏に乗せ、勢いのあるコーラスでハモる初期のファブフォー・クラシックス!

裏面もジョン・レノン&ポール・マッカートニーが書いたとされる曲で、オリジナルのタイトルは「ゲット・ユー・イン・ジ・エンド」でした。

当時のビートルズのボーカルスタイルの典型的な例として、ジョン・レノンとポール・マッカートニーがトラックの大部分を一斉に歌い、それらが調和するいくつかの機会を際立たせています。しかし、当時のほとんどのビートルズの曲とは異なり、リードギターのブレイクはありません。リードギターは実質的に2番目のリズムギターになります。トラックで最も有名な楽器は、ポールの「丸みを帯びた丸い低音」と、ジョンのハーモニカで、セッション時間がなくなると急いでオーバーダビングされました。

コンディション:NM/NM/DH
マトリックス番号S-4152-S / S-4152-I

アーティスト【ザ・ビートルズ】









ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。
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