Sixties 45
The Beatles - Help! / I'm Down
1965 USA Original 45rpm Record [CAPITOL/5476]
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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1965年7月19日にCAPITOLレーベルからリリースしたシングルです。
ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。

George Martin
ビルボード・ホット100チャートで最高1位(3週間)、USキャッシュボックスチャートで最高1位、カナダのRPMチャートで最高1位、全英シングルチャートで最高1位(3週間)を記録しました。2004年と2010年にローリングストーン誌の「史上最も偉大な曲500」で29位にランクされ、2021年のリストでは447位に再ランクされました。2008年にグラミー殿堂入りを果たしました。
1965年の映画およびバンドに関連したサウンドトラック・アルバムのタイトル曲として使用されました。
ポール・マッカートニーの協力を得て、ジョン・レノンによって書かれた曲です。ドキュメンタリーシリーズ『ビートルズ・アンソロジー』では、ビートルズが急速に成功を収めた後のストレスをジョン・レノンが表現するためにこの曲の歌詞を書いたことが明らかになりました。レノン自身は、この曲が自分が書いたビートルズの曲の中で一番好きな曲の一つであると後に語っています。
裏面は、ポール・マッカートニーによって書かれた曲で、レノン=マッカートニーの功績とされています。リトル・リチャードの「ロング・トール・サリー」のスタイルで、曲を書こうとしたマッカートニーの試みで作曲されました。1950年代のR&Bとロックンロールにインスピレーションを得た曲の歌詞は、報われない愛を歌っていますが、嘆きではなくヒステリックな、自信に満ちた「祝賀狂乱」の中で演奏されています。マッカートニーの力強いボーカルとバンドの騒々しいパフォーマンスが評価される名作・2サイダーです。ジョン・レノンはこのセッションで1965年のVOXコンチネンタル製電子オルガンを演奏しています。
□オリジナル・カンパニースリーブ付きです。
コンディション:NM/NM マトリックス番号:45-X-45293-G6 / 45-X-45292-F1 #4 |
アーティスト【ザ・ビートルズ】
ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。
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