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Sixties 45

The Beatles - Can't Buy Me Love / You Can't Do That (Re-Issue)

1971(1964) USA Re-Issue 45rpm Record [APPLE/5150]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1964年3月16日にCAPITOLレーベルからリリースした作品の、1971年APPLEレーベル・リイシュー・シングルです。

ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。

George Martin

主にポール・マッカートニーが作曲し、レノン&マッカートニーとしてクレジットされました。ザ・ビートルズはオリンピア劇場で18日間のコンサートを行っており、パリにいる間、ザ・ビートルズは5つ星のジョージVホテルに滞在し、アップライトピアノをスイートの1つに移動させて、ポールが「キャント・バイ・ミー・ラヴ」を作曲しました。この曲は、アメリカでナンバーワンに達したばかりの「アイ・ウォント・ユー・ホールド・マイ・ハンド」が成し遂げた成功のプレッシャーの下で書かれています。

ビルボード・トップ100チャートで4週間連続1位、UKシングルチャートで最高1位を記録しました。

録音は、1964年1月29日にフランスのパリにあるEMIパセ・マルコーニ・スタジオで録音され、ポールの最後のボーカルは、2月25日にロンドンのアビーロードのEMIスタジオで吹き替えされました。EMIスタジオでこの日に再録音されたのは、ジョージ・ハリソンの修正されたギター・ソロでしたが、彼のオリジナルのソロはまだバックグラウンドで聞くことができます。

「シー・ラヴズ・ユー」~「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」のヒットに続けてリリースされた勢いのある作品で、ストレートなロックンロール・ナンバーとなった初期のザ・ビートルズ・クラシックスです。

1964年にエラ・フィッツジェラルドのバージョンがシングルとしてリリースされ、英国シングルスチャートで34位のピークに達しています。



裏面はビルボード・トップ100チャートで7位、1964年3月20日にイギリスでは英国シングルスチャートで6位に達した両面ヒット曲です。後にイギリスのアルバム『ア・ハード・デイズ・ナイト』、および米国のセカンドアルバム『ザ・ビートルズ』に収録されています。

ジョン・レノンはによって書かれ、レノンの半自伝的な歌の1つであると言われています。ウィルソン・ピケット等のR&B音楽に影響を受け、そこに根ざしたブルース形式を導入して、あからさまに耳障りさを強調したハードエッジな形成がなされています。

録音は、1964年2月25日火曜日にロンドンのEMIスタジオで行われました。『エド・サリバン・ショー』に出演する為にニューヨークにいた間、ギタリストのジョージ・ハリソンは当時(1964年)900ドル相当のリッケンバッカー360デラックス・エレクトリック12弦ギターを贈られ、「ユー・キャン・ドゥ・ザット」で初めて聴かれ、独特のチャイムの様なサウンドを奏でました。

1967年にハリー・ニルソンは、彼のデビューアルバムの中で取り上げており、米国のチャートでは122位でしたが、カナダではトップ10に達しました。



コンディションVG++/VG++/JS(DNAP)
マトリックス番号45-44914-W15 / 45-44913-W14

アーティスト【ザ・ビートルズ】























ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。
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