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Sixties 45

The Beatles - All You Need Is Love / Baby You're A Rich Man

1967 USA Original 45rpm Record [CAPITOL/5964]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1967年7月7日にCAPITOLレーベルからリリースしたシングルです。

ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。

George Martin

ビルボード・ホット100チャートで最高1位、USキャッシュボックスチャートで最高1位、カナダのRPMチャートで最高1位、全英シングルチャートで最高1位を記録しました。アメリカレコード協会によってゴールド認定されました。

「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」は、1967年7月にアルバム未収録のシングルとしてリリースされました。後に米国『マジカル・ミステリー・ツアー』のアルバムに収録され、ビートルズの1968年のアニメーション映画『イエロー・サブマリン』の教訓となりました。



ジョン・レノンによって書かれた曲で、レノンとマッカートニーのパートナーシップの功績とされています。1967年のサマー・オブ・ラブ精神の代名詞であり、人道主義者としてのジョン・レノンの功績の基礎となった作品です。

この曲は、初の世界的なテレビ生放送リンクである「アワー・ワールド(Our World)」へのイギリスの寄稿であり、バンドが6月25日にロンドンのEMIスタジオでこの曲を演奏する様子が撮影されました。



この番組は衛星を通じて放送され、25か国で4億人を超える視聴者が視聴しました。レノンの歌詞は、番組の世界中の視聴者を考慮して意図的に単純化されており、サマー・オブ・ラブに関連するユートピア的な理想を捉えていました。このシングルは英国、米国、その他多くの国でセールスチャートのトップとなり、カウンターカルチャーがフラワーパワーの哲学を受け入れる賛歌となりました。

「アワー・ワールド」は、ビートルズのアルバム『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のリリース後、ビートルズの人気と影響力が最高潮に達した時期と一致しました。グループはこの曲を完全にライブで演奏するのではなく、事前に録音されたバッキングトラックに合わせて演奏しました。ジョージ・マーティンによるオーケストラの編曲により、この曲はフランス国歌の一部で始まり、グレン・ミラーの「イン・ザ・ムード」、「グリーンスリーブス」、バッハのインベンション第8番、ビートルズの1963年のヒット曲「シー・ラヴズ・ユー」等の作品から引用した音楽で終わります。スタジオは看板やのぼりで飾られ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、スモール・フェイセスのメンバーを含むサイケデリックな衣装を着たゲストでいっぱいになり、放送のお祭り的な雰囲気がさらに高まりました。ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインは、このパフォーマンスをバンドの最高の瞬間だったと述べています。



裏面もヒットしており、ビルボード・ホット100チャートで最高34位、USキャッシュボックスチャートで最高60位を記録しました。ローリングストーン誌の「ビートルズの偉大な曲100曲」のリストで68位にランクされました。

この曲はジョンの未完成の曲が起源となっており、「One of the Beautiful People」というタイトルの曲にポール・マッカートニーがコーラスを加えました。シンセサイザーの前身である単音鍵盤楽器であるクラビオリンを使用した最も有名なポップソングの1つです。レノンはオーボエ設定でクラヴィオリンを演奏し、インドのシェナイを思わせる音を作り出しました。この曲はロンドンのオリンピック・サウンド・スタジオで録音およびミックスされ、ビートルズのEMI録音の中で完全にEMIスタジオ以外で作成された初めての曲となりました。

コンディションVG/VG/RW
マトリックス番号45-X-46048-F3 #2 / 45-X-46047-G2 #2

アーティスト【ザ・ビートルズ】























ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。