Jackie Wilson - Higher & Higher / I'm The One To Do It
1967 USA Original 45rpm Record [BRUNSWICK/55336]
- 通常価格
- ¥2,600 JPY
- 通常価格
-
- セール価格
- ¥2,600 JPY
- 単価
- あたり
サム・クック、ジェームス・ブラウンと並び、USソウル史における最重要人物といわれる重要R&B~ソウル・シンガー/ジャッキー・ウィルソンが、1967年8月にBRUNSWICKレーベルからリリースしたシングルです。
それまでのプロデューサーだったディック・ジェイコブスに代わり、シカゴ・ソウルの名人、カール・ディヴィスがプロデュースを担当した作品です。
ビルボード・ホット100チャートで最高6位、ビルボード・R&Bチャートで最高1位、USキャッシュボックスチャートで最高6位、カナダのチャートで最高2位を記録しました。英国では遅れて、1969年に全英シングルチャートで最高11位、1987年に全英シングルチャートで最高15位を記録しました。ローリングストーン誌の「史上最も偉大な曲500曲」のリストで246位にランクしました。1999年にグラミー賞の殿堂入りを果たしました。
ゲイリー・ジャクソン、レイナード・マイナー、カール・スミスによって書かれた曲です。この曲は元々CHESSレコードの社内ライター兼プロデューサーであるカール・スミスとレイナード・マイナーによって書かれ、最初はレーベルのためにザ・デルズによって録音されましたが、シングルとしてはリリースされませんでした。そのザ・デルズのバージョンは、同年にCADETレーベルのアルバム『ゼア・イズ』に収録されました。
バッキング・トラックは1967年7月6日にシカゴにあるコロンビア・スタジオで録音されました。ソニー・サンダースがアレンジしたこのセッションには、ベーシストのジェームス・ジェマーソン、ドラマーのリチャード・"ピストル"・アレン、ギタリストのロバート・ホワイト、キーボード奏者のジョニー・グリフィスが参加しています。この4人のミュージシャンは全員、モータウンお抱えのバンド、ザ・ファンク・ブラザーズのメンバーであり、デイヴィスは時々彼らを雇っていました。カール・デイヴィスによれば、「ザ・ファンク・ブラザーズはよく週末にデトロイトからシカゴまで、バンに荷物を積んでやって来た。そしてシカゴでの録音の機会には、私は彼らにモータウンの倍額の給料を払ったんだ。」と語っています。
The Funk Brothers
「ハイアー&ハイアー」のセッションでは、同様に、モータウン専属のセッション歌手であるジ・アンダンテスの2人のメンバー、ジャッキー・ヒックスとマーリーン・バロウ、そしてパット・ルイス(アンダンテスのメンバー、ルーヴァン・デンプスの代役を務めていた)もバックコーラスとして参加しました。
Kim Weston & The Andantes
他には、ドラマーのモーリス・ホワイト(後のアース・ウィンド&ファイアーのシンガー)もレコーディングに参加し、モータウンのマイク・テリーがバリトンサックスを演奏しました。
Maurice White
1977年にリタ・クーリッジによるバージョンは、ビルボード・ホット100チャートで最高2位、USキャッシュボックスチャートでは1位、カナダで1位、イギリスでは6位を獲得し、ゴールド・レコードを獲得しました。
2008年、ケビン・ボーグのバージョンはスウェーデンのチャートで最高29位を記録しました。
裏面もダンサブルなソウル・ダンサーです。
B面の冒頭に大きな傷によるノイズが出ます。試聴音源でご確認いただけます。
コンディション:VG+VG- マトリックス番号:45 119161 2 / 45 119163 2 |
アーティスト【ジャッキー・ウィルソン】
Jack Leroy "Jackie" Wilson, Jr. (June 9, 1934 Detroit, Michigan, U.S. - January 21, 1984 Mount Holly, New Jersey, U.S.) R&B~ソウル・シンガー、ソングライター。サム・クック、ジェームス・ブラウンと並び「3大ソウル」と称される超大御所。また「Mr. エキサイトメント」や「ザ・ブラック・エルヴィス」といった愛称でも親しまれた。16歳の時にアマチュア・ボクサーとして活動。その後ボクシングから音楽に興味が変わり、地元のクラブでソロで歌った後に、リーヴァイ・スタブスらと共にR&Bグループ/ザ・ファルコンズ(The Falcons)(有名な同名グループとは別)を結成して活動。間もなくジョニー・オーティスに見出され、ザ・ミッドナイターズの前身となるR&Bグループ/ザ・スリラーズ(The Thrillers)にメンバーとして参加。その後もデトロイトのクラブを中心に活動し、1953年にはクライド・マクファッターの後釜としてR&Bグループ/ザ・ドミノス(The Dominoes)に正式に参加。1957年にソロ歌手へと転向しBRUNSWICKレーベルと契約を交わす。初期作品のヒットとなる「Reet Petite」、「To Be Loved」、「I'm Wanderin'」、「We Have Love」、「That's Why (I Love You So)」、「I'll Be Satisfied」、「Lonely Teardrops」等は、モータウン設立前のベリー・ゴーディーJr.(とビリー・ディヴィス)が楽曲を提供しており、ソウル・ミュージックのルーツとしても重要視されている。その後も同レーベルにおいて「Doggin' Around」、「Night」、「Baby Workout」、「No Pity (In The Naked City)」、「I'm So Lonely」、「Alone At Last」、「My Empty Arms」といった数々のヒット曲を発表した。1964-1966年の間はレコードの売れ行きが低迷し始め、カウント・ベイシーや、リンダ・ホプキンスとのコラボ企画で凌ぐ。1966年にはシカゴ・ソウルのカール・デイヴィスをプロデューサーに迎え、「Whispers (Gettin' Louder)」と、「(Your Love Keeps Lifting Me) Higher and Higher」が全国的に大ヒットし、続く「I Get the Sweetest Feeling」もヒットした。ロイ・ブラウンに影響をうけたジャンプ・ブルース・シャウター系のヴォーカルをルーツに、さらにそれにオペラ的な洗練されたテクニックを融合させ、独自のダイナミックなスタイルを確立。そのスタイルの影響は、メアリー・ウェルズやチャック・ジャクソンといったR&Bシンガーにもみられる。1984年にディック・クラーク主催のショウ「Dick Clark's Good Ol' Rock and Roll Revue」に出演中、舞台上で心臓発作が原因で倒れ49歳の若さで死去。