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Island 45

Harry Belafonte - Banana Boat (Day-O) / Jamaica Farewell (Re-Issue)

1970s(1956) USA Re-Issue 45rpm Record [RCA VICTOR/447-0324]

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「カリプソの王様」という愛称で親しまれた黒人ポップ・シンガー/ ハリー・ベラフォンテが、1956年にRCA VICTORレーベルからリリースしたシングルです。

ビルボード・トップ100チャートで最高5位、全英シングルチャートで最高2位を記録しました。

伝統的なジャマイカのフォーク・ソングで、ジャマイカがバナナ貿易で成長していた20世紀初頭に生まれたと推測されています。厳密にはメントの影響を受けていますが、一般的にはカリプソ音楽の一種として分類されています。

曲は、トリニダード出身の歌手エドリック・コナーと彼のバンド、カリビアンズによって1952年のアルバム『ソングス・フロム・ジャマイカ』で初めて録音され、「Day Dah Light」と呼ばれていました。

ハリー・ベラフォンテは、コナーの1952年の録音とルイーズ・ベネットの1954年の録音を基にして自分のバージョンを作ったそうです。

日中の太陽の熱を避けるために夜間に働く(バナナを船に積み込む)夜勤の港湾労働者の視点から歌われた、コール&レスポンスの労働歌です。歌詞は「夜が明け、シフトが終了し、仕事が終わって家に帰りたい」と願う様子が描かれています。ベラフォンテ自身は2011年、PBSニュースアワーのグウェン・イフィルとのインタビューで「デイ・オー」を「闘争についての歌、植民地生活で最も過酷な労働をしている黒人についての歌」と表現しています。彼は「私はその歌を取り上げ、世界が愛する国歌に磨きをかけた」と語っています。

1955年、アメリカのシンガー・ソングライター、ロード・バージェスとウィリアム・アタウェイが、ハリー・ベラフォンテが歌った『コルゲート・コメディ・アワー』の歌詞のバージョンを書きました。ベラフォンテはRCA VICTORでこの曲を録音し、彼の代表曲となりました。

1956年、ジャマイカを訪れこの曲を聴いたフォークシンガーのボブ・ギブソンが、フォークバンドのザ・タリアーズに自分のバージョンを教え、ジャマイカの別のフォークソング「ヒル・アンド・ガリー・ライダー」のコーラスを組み込んだバージョンを録音しました。このリリースは彼らの最大のヒットとなり、ポップチャートで4位に達し、ベラフォンテのバージョンを上回っています。

日本では1957年に浜村美智子が歌い「バナナ・ボート・ガール」として有名になりました。

1956年にザ・フォンテイン・シスターズがバージョンは全米チャートで13位に達しました。

1956年にサラ・ヴォーンのバージョンが全米チャートで19位に達しました。

1957年にシャーリー・バッシーのバージョンが全英チャートで8位に達しました。


裏面も1956年にRCA VICTORレーベルからリリースした作品のカップリングです。

ビルボード・トップ100チャートで最高14位を記録しました。

西インド諸島で古くから人気があったジャマイカ風のフォークソング(メント)です。歌詞は、アメリカ生まれのバルバドス系ソングライター、ロード・バージェス(アーヴィング・バーギー)によって書かれました。バージェスは多くの民謡からこの歌を編集し、修正して新しい歌を作ったと考えられています。西インド諸島の美しさについて歌われた他、「アキー、ライス、塩漬け魚はおいしい」というジャマイカの国民食についても言及しています。

オリジナル・カンパニースリーブ付きです。

コンディション:NM/NM/RI
マトリックス番号J2PW-5658--4S A3 / J2PW5657 5S A1


アーティスト【ハリー・ベラフォンテ】



ジャマイカの血を引くアメリカ人ポップ・シンガー。1927年ニューヨーク・ハーレム生まれで、本名 Harold George "Harry" Belafonte, Jr. 。カリブ音楽をポピュラー音楽に持ち込んで大衆化し、「カリプソの王様」という愛称でも親しまれた。初期はフォーク・ソングを歌い、1952年にRCA VICTORレーベルと契約。1956年のアルバム「Calypso」は大ヒットとなり、R&Bを含むポピュラー音楽にカリプソやカリブ音楽の要素を盛り込むブームを巻き起こした。「Banana Boat Song」や「Jamaica Farewell」が代表作品として知られている。1960年に黒人では初めてエミー賞を受賞し、以降は財団を設立して黒人の地位向上のために力を注ぎ、公民権運動に積極的に関わるなど、音楽よりも社会活動家として活躍するようになる。