The Beatles - Magical Mystery Tour [UK 45rpm, 7inch, EP, w/PS]
1967 UK Original 45rpm Record [PARLOPHONE/SMMT-1]
- Preço normal
- ¥14,800 JPY
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- ¥14,800 JPY
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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1967年11月27日にUK PARLOPHONEレーベルからリリースした45回転7インチEP盤です。全6曲が収録されており、 LPアルバムには少なすぎるが、EPには多すぎるため“ダブルEP”というフォーマットでリリースされることになりました。1967年に放映された同名のテレビ映画のサウンドトラックが含まれています。
アメリカとカナダでは11月27日にCAPITOLレコードからLPが発売され、それには同年にシングルとしてリリースされた5曲が追加で収録されています。レコードフォーマットとパッケージングを実験したいというザ・ビートルズの要望に加え、EPとLPには歌詞と、映画制作時のカラー写真、漫画家ボブ・ギブソンによるカラーストーリーイラストを含む24ページの小冊子が同梱されるという画期的なものとしてリリースされました。
ザ・ビートルズはレコーディングの際にスタジオ実験を続けており、1966年のアルバム『リボルバー』と、1967年のアルバム『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』以来追求してきたサイケデリック・サウンドを追及していました。このプロジェクトは1967年4月にポール・マッカートニーによって始められましたが、バンドが『マジカル・ミステリー・ツアー』という曲を録音した後、8月下旬にマネージャーのブライアン・エプスタインが亡くなるまで活動は休止状態となりました。その後、レコーディングは撮影と編集が並行して行われ、ザ・ビートルズは教師マハリシ・マヘシュ・ヨーギの下で超越瞑想体験を深めました。特にジョージ・ハリスンは瞑想を熱心に追求しています。音楽評論家によると、このEPアルバムはマハリシの擁護を通じた東洋文化と結びつきがあり、曲は順番に、祝賀、郷愁、不条理、無邪気、至福、そして混乱が表現されていると説明しています。
<収録曲>
Side 1: Magical Mystery Tour / Your Mother Should Know
Side 2: I Am the Walrus
Side 3: The Fool on the Hill / Flying
Side 4: Blue Jay Way
ゲートフォールド型のオリジナル・ピクチャースリーヴ付きです(ブックレット破損無しで全体的に保存状態は良好です)。
コンディション:NM/NM/NOC//NM/NM/NOC マトリックス番号:7YCE 18435 3 / 7XCE 18434-3 / 7YCE 18436-3 / 7YCE 18437-2 |
アーティスト【ザ・ビートルズ】
ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。