The Beatles - I Feel Fine / She's A Woman (Re-Issue)
1975(1964) USA Re-Issue 45rpm Record [APPLE/5327]
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- ¥2,400 JPY
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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1964年11月23日にCAPITOLレーベルからリリースした作品の、1975年APPLEレーベル・リイシュー・シングルです。
ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。
George Martin
ビルボード・トップ100チャートで最高1位、UKシングルチャートで最高1位、カナダのRPMチャートで最高1位を記録しました。
ジョン・レノンによって書かれた曲で、ジョン・レノンとマッカートニーの作品として登録されています。特徴的なギターのリフは、ボビー・パーカーの1961年のR&B曲「ウォッチ・ユア・ステップ」のリフに影響を受けていると、ジョン・レノンとジョージ・ハリスンは述べています。またドラムスはレイ・チャールズの1959年のR&B曲「ホワッド・アイ・セイ?」からインスピレーションを得たものだとも語っています。
この曲のレコーディングの時点で、ザ・ビートルズはスタジオの基本をマスターしており、この曲ではポピュラーミュージックの録音効果としてオーディオ・フィードバックを使用した最初期の例の1つとしてみなされています。ザ・キンクスやザ・フーなどのアーティストはすでにフィードバックをライブで使用していましたが、ジョン・レノンは、おそらくザ・ビートルズがおそらく意図的にフィードバックをレコードに収録した最初のグループであるという事実を誇りに思っていたそうです。
裏面もビルボード・ホット100チャートで最高4位を記録した、アメリカ・オンリーのヒットとなる両A面シングルです。
主にポール・マッカートニーによって書かれた曲で、レノン&マッカートニーとしてクレジットとされています。この曲はマッカートニーがリトル・リチャードのスタイルで曲を書こうとしたことから生まれました。歌詞には、ザ・ビートルズの曲で初めてドラッグへの言及が含まれており、「ターン・ミー・オン」という行でマリファナについて言及しています。マッカートニーの力強いボーカルと、バンドの大音量の演奏が賞賛されている名作です。
翌年にヒットする米国のサー・ダグラス・クインテットの「シーズ・アバウト・ア・ムーヴァー」に影響を与えた様な作風が印象的です。
コンディション:VG++/VG++/JS(DNAP) マトリックス番号:45-45085-F10 / 45-45086-F10 |
アーティスト【ザ・ビートルズ】
ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。