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Sixties 45

The Beatles - Day Tripper / We Can Work It Out

1965 USA Original 45rpm Record [CAPITOL/5555]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1965年12月3日にCAPITOLレーベルからリリースしたシングルです。ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品で、ビルボード・ホット100チャートで最高5位、UKシングルチャートで最高1位を記録しました。

George Martin

主にジョン・レノンによって書かれた曲で、ポール・マッカートニーが歌詞の一部を書きました。ジョン・レノンは1970年に「デイ・トリッパー」を「ドラッグ・ソング」だと表現しており、2004年のポール・マッカートニーへのインタビューでは「アシッド(LSD)についての曲」だと述べています。曲のタイトルは、日帰り旅行の旅行者と、ドラッグでサイケデリックな体験という意味で「トリップ・旅行」の両方を意味する言葉遊びになっています。

曲は、彼らが米国ツアー中に耳にしたR&B~ソウル・ミュージックを反映させた作風になっています。アルバム『ラバー・ソウル』のセッション中に録音されました。ギターリフはボビー・パーカーのR&B曲である「ウォッチ・ユア・ステップ」に基づいており、やはり全体的にアメリカのR&Bミュージックのテイストを取り入れたロック・ナンバーに仕上がっています。このシングルを宣伝するためにプロモーション動画が使用され、現代のミュージック・ビデオを先取りしたことでも知られています。

オーティス・レディング他、カバーも多い作品です。



当時のイギリス盤のアルバムには未収録で、アメリカのアルバムでは『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』に収録されています(イギリスでは1966年のアルバム『オールディーズ』、1988年のアルバム『パスト・マスターズ Vol.2』にそれぞれ別のステレオ・ミックスで収録)。

裏面もビルボード・ホット100チャートで最高1位、UKシングルチャートで最高1位、カナダのRPMチャートで最高1位を記録した完全両A面しグルです。日本では邦題「恋を抱きしめよう」として知られています。

曲はポール・マッカートニーとジョン・レノンが共同で書いたものです。マッカートニーは詩とコーラスに歌詞と音楽を書き、歌詞はおそらくジェーン・アッシャーとの関係に言及したものだったと言及しています。マッカートニーはそれをジョン・レノンのところに持って行って仕上げてもらい、途中の部分を一緒に書きました。ワルツのような一節はジョージ・ハリソンが提案しました。

スティーヴィー・ワンダーのカバーもヒットしています。



オリジナル・カンパニースリーブ付きです。

コンディションNM/NM
マトリックス番号45-X-45378 F5 / 45-X-45377-F5

アーティスト【ザ・ビートルズ】









ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。