Sam Cooke - Only Sixteen / Let's Go Steady Again
1959 USA Original 45rpm Record [KEEN/3-2022]
- Preço normal
- ¥2,400 JPY
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多くのヒット曲とゴスペルやブルース、ジャズをルーツにした歌唱スタイルでソウル&ロックに多大な影響を与え、ジェームス・ブラウン、ジャッキー・ウィルソンと並ぶ3大ソウル・シンガーとして称えられるR&B~ソウル・シンガー、ソングライターのサム・クックが、1959年5月にUS KEENレーベルからリリースしたシングルです。
バンプス・ブラックウェル・プロデュースによる作品です。
ビルボード・ホット100チャートで28位、ビルボード・R&Bチャートで13位、英国シングルチャートで23位を記録しました。
「オンリー・シックスティーン」はルー・ロウルズの義姉、ユーナイスの16歳の誕生日に触発されてサム・クック自身によって書かれました。元々は、KEENスタジオによく出没した俳優のスティーブ・ローランドの為に書かれています。ローランドはサムに曲を書いてくれる様に頼み、そして、サムは彼の「リトル・シングス・ユー・ドゥ」の曲からリフを応用しました。しかし、ローランドのマネージャーはその歌を好まず、結局サムは自分で録音するに至りました。
1959年、クレイグ・ダグラスによるバージョンが英国シングルチャートで1位に達しています。
1975年、ドクター・フックのバージョンはビルボードホット100チャートで6位、キャッシュボックストップ100チャートで5位になりました。
1965年、テリー・ブラックのバージョンがカナダのチャートで14位に達しました。
1965年、ザ・スプリームスがアルバム『リメンバー・サム・クック』の中でカバーしています。
ジャマイカのアーティスト、コーネル・キャンベルがレゲエバージョンを録音しました。
裏面はポップバラード曲です。1967年にアーサー・コンリーが彼のヒットシングル「スウィート・ソウル・ミュージック」のB面でカバーしており、ディープソウルとして完成させています。
コンディション:VG(+)/VG+ マトリックス番号:RK59083 B1 / RK59082 A1 |
アーティスト【サム・クック】
Samuel "Sam" Cooke (January 22, 1931 Clarksdale, Mississippi, U.S. - December 11, 1964 Los Angeles, California, U.S.) R&B~ソウル・シンガー、ソングライター、音楽プロデューサー、レーベル・オーナー。R&B~初期ソウル大物中の大物で、ジェームス・ブラウン、ジャッキー・ウィルソンと並ぶ3大ソウル・シンガーとして称えられる。初期はザ・ソウル・スターラーズという有名なゴスペル・グループに在籍して活躍し、SPECIALTYレーベルに録音を残す。ゴスペル歌手としても絶大な人気を誇る最中、1956年にデール・クック(Dale Cook)という名義でポップ/R&B歌手に転向し、引き続きSPECIALTYレーベルで「Forever」 / 「Loveable」をソロで初録音する。1957年に同レーベルにて「I'll Come Running Back To You」がナショナルヒットを記録し、同年にKEENレーベルに吹き込んだ「You Send Me」が全国区で大ヒットとなり知名度も上がる。このKEENレーベルではティーン向けのポップスの他にも、大人向けのジャズ・ヴォーカル作品等も残している。1960年にRCA VICTORレーベルに移籍し、そこからは「Twistin' the Night Away」、「A Change Is Gonna Come」、「Cupid」、「Chain Gang」といったヒットを連発する。活動の中期から徐々にゴスペル色を強めた自己のスタイルを形成していき、活動後期の作品では、人種問題を示唆した作品も意識的に作り、公民権運動の最中に“ブラック・プライド”の自覚を促した。また自身でインディペンデント・レーベルSAR/DERBYレーベルを設立しており、TAMLA/MOTOWNレーベルよりも早い時期に、黒人音楽企業家となり先駆けとなった。そこではポピュラーミュージックの他に、原点であるゴスペルの録音も積極的に行い、文化の保存と継承にも尽力した。オーティス・レディングや、アレサ・フランクリン、ボビー・ウーマック、ダイアナ・ロス、カーティス・メイフィールドといった後のソウル・スター達もサムの歌唱スタイルと魂を受け継いでおり、あらゆる面で強い影響力を持った天才人物といえる。1964年にロサンジェルスのモーテルで管理人の女に発砲され、惜しくも33歳の若さで死去したが、不審な点が多く殺害の原因は未だに謎に包まれている。