Ray Charles - What'd I Say Part 1 / What'd I Say Part 2
1959 USA Original 45rpm Record [ATLANTIC/45-2031]
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- ¥2,400 JPY
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50年代初頭から多くのヒット曲を放ち、“ブラザー・レイ”、“天才”、“ソウルの神様”等の愛称でも親しまれた、R&B~ソウル・シンガー、ソングライター、サックス&鍵盤楽器奏者/レイ・チャールズが、1959年6月にATLANTICレーベルからリリースしたシングルです。
ビルボード・ホット100チャートで最高6位、R&Bチャートで最高1位を記録しました。レイ・チャールズにとっての最初のゴールドレコード獲得であり、2002年にはナショナル・レコーディング・レジストリーに追加されました。ローリングストーン誌が選ぶ「史上最高の500曲」のリストでは、2003年には10位、2021年には80位にランクしています。
1954年に「アイ・ゴット・ア・ウーマン」を録音して以来、チャールズが作成してきたすべての要素を最終的にまとめあげた大作、名作です。チャールズは多くのR&Bヒットを放った後、ついにR&Bをメインストリームのポップミュージックとして分解することに成功し、それ自体はソウルという名前でR&Bの新しいサブジャンルとなりました。ゴスペルとルンバの影響が曲の性的なほのめかしと混ざり合い人気が出ただけでなく、白人と黒人の両方の聴衆に非常に物議を醸した作品でもあります。R&Bとロックンロールの歴史の中で最も影響力のある曲の1つとなっています。
この曲の影響で、リズム・パターンを模した作品が各ジャンルで登場し、カバーも数多く登場しました。イギリスのザ・ビートルズのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソンは過去に「ホワッド・アイ・セイ?」について言及しており、実際にザ・ビートルズ(歌手はトニー・シェリダン)でも録音しています。
ザ・ビートルズと同時期のバージョンとしては、ザ・ビッグ・スリーによるカバーが秀逸です。
またデトロイトのバレット・ストロングによるヒット「マネー」は、「ホワッド・アイ・セイ?」の楽曲とリズムが応用されています。
ガール・グループ/ザ・シュレルズの名作「ボーイズ」も、「ホワッド・アイ・セイ?」のパターンを応用したガール・ポップスの名作です。
「ホワッド・アイ・セイ?」はトータルで5分あった作品の為、本シングルの裏面には後半部分をカップリングしています。ゴスペルのコール&レスポンスで幕を開け、ザ・レイレッツのコーラスも登場し、さらなる盛り上がりをみせるパート.2!
<参加ミュージシャンと録音場所+日時>
Ray Charles [What'd I Say Part 1 Part 2]
David Newman, tenor, alto sax; Bennie Crawford, baritone sax; Ray Charles, piano, vocals; Edgar Willis, bass; Milt Turner, drums; and others.
NYC, February 18, 1959
コンディション:VG/VG/RW マトリックス番号:45-X100-4 / 45-X200-2 |
アーティスト【レイ・チャールズ】
Ray Charles Robinson (September 23, 1930 Albany, Georgia, United States - June 10, 2004 Beverly Hills, California, United States) R&B~ソウル・シンガー、ソングライター、サックス&鍵盤楽器奏者、音楽プロデューサー、レーベルオーナー。R&B~ソウル界の大物で、愛称は“ブラザー・レイ”、“天才”、“ソウルの神様”。5歳の時に緑内障が原因で視力が低下し、7歳で盲目となる。15歳の1946年に母親を亡くし、友達の母親にフロリダ州ジャクソンヴィルで育てられる。間もなく同州オーランド~タンパに移住し、そこで初めてザ・フロリダ・プレイボーイズ(The Florida Playboys)というバンドに参加している。1947年に単身シアトルに移住し、 ロバート・ブラックウェルや、14歳のクインシー・ジョーンズらと交流を持つ様になる。そしてギタリストのG. D. マッキー(G. D. McKee)と、ベーシストのミルトン・ギャレット(Milton Garrett)と共にザ・マクソン・トリオ(The McSon Trio)を結成し、1949年にザ・マキシン・トリオ(The Maxin Trio)の名義でDOWN BEATレーベルに初録音した「Confession Blues」が初ヒットを記録した。同1949年にレイ・チャールズのソロ名義でSWING TIMEレーベルと契約し、「Baby Let Me Hold Your Hand」、「Kissa Me Baby」の2曲がヒットした。1952年にSITTIN' IN WITHレーベルとROCKIN'レーベルにもシングルを残し、同年にニューヨークに拠点を構えるアーメット・アーティガンのATLANTICレーベルに移籍する。初期はナット・キング・コールやチャールズ・ブラウン・スタイルのジャズやウェストコーストブルースを売りにしていたが、ATLANTIC入社後にはジャンプブルースやブギウギ、そしてゴスペルの要素を持ち込んだ独自のR&Bを展開。1953年に「Mess Around」がヒットした以降ヒットを連発し、1954年には歴史的名作の「I Got a Woman」を発表。様々な音楽要素をミクスチャーさせた新リズムは、1959年の「What'd I Say」に直結し、ソウルミュージックの先駆者として強い影響力を持つ事となる。1960年にはABC PARAMOUNTレーベルに移籍し、そこでは「Georgia On My Mind」や「Hit The Road Jack」、「Unchain My Heart」といったメインストリーム向けのR&Bをヒットさせていき、アメリカ国内だけに留まらず、世界的な成功を収めた数少ないR&Bスターとして有名になった。