Sixties 45
Jan & Dean - Yellow Balloon / Taste Of Rain
1967 USA Original 45rpm Record [COLUMBIA/4-44036]
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「サーフ・シティー」、「デッドマンズ・カーヴ」、「ザ・リトル・オールド・レィディー・フロム・パサディナ」他、多くのヒットで60年代を代表するコンビとなった、ジャン・ベリーとディーン・トーレンスによるポップ・ボーカル・デュオ/ジャン&ディーンが、1967年2月にCOLUMBIAレーベルからリリースしたシングルです。ディーン・トーレンス・プロデュースによる作品です。ビルボード・ホット100チャートで最高111位、USキャッシュボックスチャートで最高116位を記録しました。
1966年末、ジャン&ディーンのディーン・トーレンスが新しいアルバム用に新曲が数曲必要となり、トーレンスは以前一緒に仕事をしたロサンゼルスの才能あるシンガー・ソングライター・プロデューサーであるゲイリー・ゼクリーに協力を求めました。そしてゼクリーがトーレンスに贈った曲のひとつが「イエロー・バルーン」でした。この時、ジャン・ベリーは交通事故(デッドマンズカーブ付近での事故)で瀕死の状態になっていためレコーディングには参加しておらず、実質ディーン・トーレンスのソロ・プロジェクトといえる作品です。
ゼクリーはこの曲の出来をを誇りに思っていましたが、トーレンスの録音が気に入らなかったため、ゼクリーは曲を別のレーベルにも売り込みました。そしてザ・イエロー・バルーンという自身のプロジェクトを立ち上げ、1967年5月20日に、ザ・イエロー・バルーンのバージョンはビルボードのホット100チャートで最高25位に達し、ジャン&ディーンのバージョンと競合しましたがジャン&ディーンのバージョンは111位止まりでした。
このシングル2曲が収録された1966年11月のアルバム『セイブ・フォー・ア・レイニー・デイ』(J&D/101)は小枚数の本プレスまで行われましたが、正式に発売されることなくキャンセルされれており、現在では幻のレア盤として知られるコレクターアイテムとなっています。

裏面はポップ・バラードです。
【 サンシャイン・ポップ】 1960年代半ばに南カリフォルニアで生まれたポップ・ミュージックのサブジャンルのひとつです。イージーリスニングと広告のジングル、成長するドラッグカルチャーに根ざしており、ノスタルジックなムードや不安なムードと「世界の美しさへの感謝」を組み合わせたものが特徴的です。音楽はザ・ビーチ・ボーイズの影響が多大であると考えられていますが(特にアルバム『ペット・サウンズ』)、ザ・ビーチ・ボーイズがこのジャンルを代表するということはめったにありませんでした。サンシャイン・ポップと総称される音楽ジャンルのスタイルは、豊かなボーカルとサンバ音楽に似た軽いアレンジが特徴的で、ザ・ママス&ザ・パパス、ザ・フィフス・ディメンション、ザ・タートルズ、ジ・アソシエーションなどの人気グループが代表的です。年代的には、1967年の春と夏、特に「サマー・オブ・ラブ」の直前に、トップ40ヒットの多くがピークに達し成功を収めました。ミレニアム、サジタリウス、イエロー・バルーンなどのグループはあまり成功していませんでしたが、後年の再評価でカルト的な人気を獲得し、中古盤市場ではコレクターに求められました。特に1990年代初頭の日本での人気の再燃ぶりは凄まじく、サンシャイン・ポップの派生系として「渋谷系」や「ソフト・ロック」といった新語と一過性のブームが形成されました。 |
オリジナル・カンパニースリーブ付きです。
コンディション:VG-/VG-/RW マトリックス番号:ZSP-117343-1F / ZSP-117344-1E |
アーティスト【ジャン&ディーン】
ポップ・オーカル・デュオ。ロサンジェルス出身のジャン・ベリー(Jan Berry)が、友人バロン・アーニー・ギンズバーグ(Baron Arnie Ginsburg)とコンビを組み、ジャン&アーニーで1958年にARWINレーベルよりデビュー。その直後にアーニーではなく、ディーン・トーレンス(Dean Torrence)との新コンビ、ジャン&ディーンを結成して活動。1958-1963年の間にはDORE, CHALLENGEレーベルに録音を残し、ドゥーワップ・スタイルのマルチ・パート・ヴォーカルを取り入れた「Baby Talk」、「Heart & Soul」、「Linda」等をヒットさせており、この時期の作品はザ・ビーチ・ボーイズや、後のサーフ・コーラスにも影響を与えたと言われる。その後LIBERTYレーベルに移籍し、当時の若者文化を象徴するサーフィンやホット・ロッド、スケボー等をモチーフにした「Surf City」、「Drag City」、「Dead Man's Curve」、「The Little Old Lady from Pasadena」等を連続ヒットさせ人気を博しました。1965年以降はサーフ・ブームも収束し、1966年にはジャンは自らが歌った「Dead Man's Curve」(ビバリーヒルズに実在する“魔のカーブ”)で事故を起こしたり、紆余曲折あったものの活動を続け、ジャンが他界する2004年までコンビで活動している。またジャン・ベリーは裏方としても才能を発揮し、多数のアーティストのプロデュースやアレンジ、作曲等にも携わった。
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