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Sixties 45

The Beatles - Love Me Do / P. S. I Love You (Re-Issue)

1960s(1962) USA Re-Issue 45rpm Record [OLDIES45/OL-151]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1962年10月5日にUK PARLOPHONEレーベルからリリースしたデビュー曲です。アメリカでは1964年4月27日にTOLLIEレーベルからシングルがリリースされ、その後(おそらく直後から1965年あたり)にOLDIES45レーベルからリリースされたリイシュー盤です。ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品で、ビルボード・トップ100チャートで最高1位、UKシングルチャートで最高17位を記録しました。

George Martin

ジョン・レノンとポール・マッカートニーによる共作とされており、ブルース・チャンネルのヒット曲「ヘイ、ベイビー」をアレンジし、同様のハープをフィーチャーして仕上げています。



「ラブ・ミー・ドゥ」はロンドンのアビーロードにあるEMIスタジオで、3人の異なるドラマーと3つの異なるセッションで録音されています。

1962年6月6日に録音された、ドラムのピート・ベストによるバージョンは、以前は音源は失われていると考えられていましたが、今はアルバム『アンソロジー 1』で聴く事ができます。



1962年9月4日にリンゴ・スターによるドラムのバージョンが録音され、そのバージョンは当時、PARLOPHONEレーベルから白レーベルシングルとしてリリースされ、英アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』と『ザ・ビートルズ・ヒッツ・EP』にも収録されています。後にコンピレーションアルバム『レアリティーズ』、『パスト・マスターズ Vol.1』で聴く事が出来ます。元々このシングルは10月5日に店頭に並ぶ予定でしたが、リンゴ・バージョンではなくアンディ・ホワイト・バージョンが優位となり、白レーベルバージョンは破棄するように命じられましたが、一部のコピーが存在する可能性があります。そういった理由から、このPARLOPHONEレーベル盤のシングルは非常にレアでコレクターズ・アイテムとして知られる様になっています。現在では、特に綺麗なホワイトレーベル[A]プロモ盤は日本円で100万円~180万円の相場でオークションで取引されています。





1962年9月11日、ジョージ・マーティンはリンゴ・スターのドラムにも満足しなかったことから、再度録音する事を決定し、セッション・ミュージシャンのアンディ・ホワイトがドラムを演奏し、リンゴはタンバリンを叩いています。それはUS TOLLIE盤シングルで聴く事が出来ます。

裏面は主にポールマッカートニーが作曲し、ロン・リチャーズがプロデュースした作品です。この曲は1962年10月5日にイギリスでデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥー」のBサイドとしてリリースされており、US TOLLIE盤も同様のカップリングです。

録音はロンドンのEMIのアビーロードスタジオで1962年9月11日に10テイクで行われました。プロデューサーのジョージ・マーティンは、セッションのドラマーであるアンディ・ホワイトを、ピート・ベストの代わりとして予約しました。マーティンはセッションに出席しておらず、作業はロン・リチャーズによって運営されています。

オリジナル・カンパニースリーブ付きです。

【OLDIES45レーベル】



OLDIES45レーベルは、60年代半ばに倒産するVEE-JAYレーベルが、資金集めのために苦肉の策として手がけたノックオフ再発レーベルでした。自社の過去のカタログからの再発を中心に、様々な過去のヒット曲を無尽蔵にリイシューしています。レコードのプレスはオリジナルのスタンパーを用いてプレスされており、いずれも音質がオリジナル盤と同等、もしくは場合によってはオリジナル盤以上の音質のものもあり上質です。特に50年代初期作品のリイシューでは、音質の優位性は歴然としております。

コンディション:NM/NM/RI
マトリックス番号45-63-3188 52252 / 45-63-3189 52252-X

アーティスト【ザ・ビートルズ】









ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。