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Sixties 45

The Beatles - Let It Be / You Know My Name (Look Up My Number)

1970 USA Original 45rpm Record [APPLE/2764]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1970年3月6日にAPPLEレーベルからリリースしたシングルです。マッカートニーがバンド脱退を発表する前のビートルズ最後のシングルとなりました。

ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。


George Martin (center)

ビルボード・ホット100チャートで最高1位、UKシングルチャートで2位、カナダのRPMチャートで最高1位を記録しました。2004年にグラミーの殿堂入りを果たしました。MOJO誌は、2006年の「最も偉大なビートルズの曲101曲」のリストで50位にランク付けしました。ローリングストーン誌が選ぶ「ザ・500・グレーテスト・ソングス・オブ・オール・タイム」のリストで20位にランク付けしました。

曲はポール・マッカートニーによって書かれ、レノン&マッカートニーとクレジットされました。マッカートニーは、1968年の『ホワイト・アルバム』のセッションを巡る緊迫した時期に母親の夢を見たことが「レット・イット・ビー」のアイデアを思いついたと語っています。

アルバム『レット・イット・ビー』のタイトル・トラックですが、アルバムのバージョンはフィル・スペクターがプロデュースしたバージョンで、そちらは、ハリソンの2番目のギターソロのオーバーダビング、バックボーカルの減少、スターのハイハットのディレイエフェクト、そして何よりも顕著なオーケストレーションが特徴的です。



ジョージ・マーティンがプロデュースしたこのシングル・バージョンは、よりソフトなギター・ソロと低くミックスされたオーケストラ・セクションを特徴としています。

裏面はレノン&マッカートニー作によるボサノバの要素を取り入れたミュージック・ホール・コメディ曲です。ザ・ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズがサックスを演奏しています。



曲のタイトルがレーベルの左に表記された1st.プレスです(2nd.プレスはタイトルが下に表記された1971年盤)。オリジナル・カンパニースリーブ付きです。

コンディション:NM/NM/SOL
マトリックス番号S-45-47129-Z4 / 45-47130-Z3

アーティスト【ザ・ビートルズ】























ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。