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Sixties 45

The Beatles - Hello Goodbye / I Am The Walrus

1967 USA Original 45rpm Record [CAPITOL/2056]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1967年11月24日にCAPITOLレーベルからリリースしたシングルです。

ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。


George Martin

ビルボード・ホット100チャートで最高1位、カナダのRPMチャートで最高1位、UKシングルチャートで最高1位を記録しました。2015年にNMEが選んだ「最も偉大なビートルズ・ソング100曲」のリストでは91位にランクインしました。ウェブサイト/アルティメット・クラシック・ロックによる「ビートルズ・ソング・トップ50」のリストで45位に挙げています。2006年にモジョ誌がまとめた同様のリストで36位に選定されました。スティーヴン・スピネシとマイケル・ルイスの著書『ビートルズのベスト・ソング100』で76位にランクされています。

ポール・マッカートニーによって書かれ、レノン・マッカートニーのクレジットとされています。アルバム未収録のシングルとして発売され、アメリカでのアルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』(同名の英国盤2枚組EPの拡大盤)に収録されました。マネージャーのブライアン・エプスタインの死後に出されたグループ初のリリースとなりました。マッカートニーは後に、歌詞は二面性をテーマにしていると語っています。曲のタイトルと一致して、歌詞は「イエス?ノー、ハイ?ロー、ストップ?ゴー」などの一連の対義語で構成されています。シンプルなメロディーと単純な歌詞は多くの音楽評論家から批判の対象となりましたが、その反面、ビートルズを偉大なポップ・バンドたらしめたすべてが凝縮している巨大で輝かしい革新的なシングルという称賛の声もあります。

裏面はビルボード・ホット100チャートで最高56位、USキャッシュボックスチャートで46位を記録しました。



1967年のテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』の曲です。ジョン・レノンによって書かれ、レノン=マッカートニーとクレジットされてます。ジョン・レノンは、ビートルズの歌詞を真剣に学術的に解釈していたリスナーを当惑させるためにこの曲を書きました。彼は、2回のLSDトリップとルイス・キャロルの1871年の詩「セイウチと大工」のとある部分からインスピレーションを受けました。プロデューサーのジョージ・マーティンは、ヴァイオリン、チェロ、ホーン、クラリネットを含むオーケストラの伴奏をアレンジし追加しました。プロのスタジオボーカリストからなる16声の合唱団であるマイク・サムズ・シンガーズもレコーディングに参加し、ナンセンスな歌詞や甲高いピー音などをさまざまに歌いました。

オリジナル・カンパニースリーブ付きです。

コンディションVG++/VG++
マトリックス番号45-X4660-F3 / 45-X-4661-F1

アーティスト【ザ・ビートルズ】























ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。