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Blues 45

Little Willie Littlefield - Kansa City / The Midnight Hour Was Shining

1959(1952) USA Original 45rpm Record [FEDERAL/45-12351]

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初期の録音が「ブギウギとロックンロールの重要なつながりを形成した」と称される初期のR&Bおよび伝統的なブギウギのピアニスト兼シンガー/リトル・ウィリー・リトルフィールドが、1952年12月にFEDERALレーベルからリリースしたシングル「K. C. Loving」の、1959年セカンドプレス盤です。

ジェリー・リーバー&マイク・ストーラー・プロデュースによる作品です。


Jerry Leiber & Mike Stoller

1952年にブルースとR&Bを愛したロサンゼルス出身で19歳だったジェリー・リーバーとマイク・ストーラーによって書かれた曲です。二人ともカンザス・シティに行ったことはなかっですが、ビッグ・ジョー・ターナーのレコードに触発されて書かれた曲です。「カンザスシティに行くんだ、カンザスシティ、今行くよ(2回)。あそこにはクレイジーな愛し方があるんだ、俺もそれを味わうつもりさ。12番街とヴァイン通りの角に立ってるつもりさ(2回)。カンザスシティの恋人と、カンザスシティのワインを一本持っ て...」

プロデューサーのラルフ・バスとの繋がりを通じて、彼らは西海岸のブルース/R&Bアーティスト、リトル・ウィリー・リトルフィールドのために「カンザス・シティ」を特別に書き下ろしました。当初、二人の作詞作曲家は曲のメロディーについて意見が合わなかったそうです。歌詞を書いたリーバーは伝統的なブルース曲を好みましたが、ストーラーはより特徴的なボーカルラインを求めました。最終的にストーラーが勝ちました。彼らはマックスウェル・デイヴィスの家でリトルフィールドにこの曲を教え、デイヴィスは曲のアレンジとテナーサックスを提供しました。リトルフィールドは1952年、KINGレコードの子会社であるFEDERALレコードでの最初のレコーディング・セッション中にロサンゼルスでこの曲を録音しました。FEDERALのラルフ・バスはタイトルを「K. C. Loving」に変更しました。その理由は、伝えられるところによると、彼は「カンザス・シティ」よりも「その方が今っぽくてカッコいい(Hipper)」と思ったからだそうです。

アーバンで泥臭いジャンプ・ブルース/R&Bの魅力が詰まっており、テナーサックスの音色と彼の転がるようなピアノの掛け合いが、のちのロックンロールの誕生を予感させる重要な架け橋となっています。

のちに300人以上のアーティストにカバーされ、ロックンロールのスタンダードナンバーとなりました。代表的なものとして、ここでは以下のバージョンが挙げられます。

1955年、リトル・リチャードは「カンザス・シティ」のかなり異なる2つのバージョンを録音しましたが、どちらも数年後までリリースされませんでした。オリジナル曲に近い最初のバージョンは、1970年11月にコンピレーション・アルバム『Well Alright! 』に収録されてリリースされました。

1956年5月9日、リトル・リチャードは2番目のバージョンでこの曲を大幅に作り直し、タイトルを「Hey-Hey-Hey-Hey」に変更して、歌詞に「Hey, hey, hey, hey; Hey baby, hey child, hey now」で始まるリフレインを追加しました。これは「Hey-Hey-Hey-Hey! (Goin' Back to Birmingham)」としても知られており、6か月前に録音された「Kansas City」の2番目のバージョンの一部に似ています。このバージョンは1958年後半に『The Fabulous Little Richard』に収録され、1959年4月にシングルとしてリリースされました。

1959年3月、リトル・リチャードのバージョンがリリースされた後、ハリソンはギタリストのワイルド・ジミー・スプルールを含むトリオで、FURYレコードのプロデューサー/ボビー・ロビンソンのためにニューヨークのスタジオで録音しました。「Kansas City」は同年後半にフューリーからシングルとしてリリースされました。この曲のアレンジはリトルフィールドのものとほとんど変わりませんでしたが、スプルイルのインスピレーション溢れるリズムとソロギターワークによって、忘れ得ないほどにしっかりとしたシャッフルグルーヴを生み出しました。ハリソンの曲はリーバーとストーラーのオリジナルタイトル「カンザスシティ」でリリースされましたが、リフレインを「あそこにはクレイジーな小柄な女性たちがいる、そして俺は一人手に入れるつもりだ」に変更し、12小節のセクションの1つは削除されました。

1964年10月、ザ・ビートルズはリトル・リチャードの「カンザス・シティ」(「カンザス・シティ」/「ヘイ、ヘイ、ヘイ、ヘイ」というタイトル)を録音しました。この曲は、1961年の春にハンブルクで演奏し始めた曲としても知られています。

裏面は、リトリフィールド自作によるミッドテンポのブルース上質作品です。

□A面から見て4~6時の方向のレーベルとデッドワックスの部分に、レーベルに沿った薄い割れ(ヘアラインクラック)がございますが、再生・音質に悪影響はございませんでした。割れはよく凝視して見ないと分からないくらいの割れ方です。

コンディション:VG-/VG-/CRACK(DNAP)
マトリックス番号:F-45-278-C1 / F-45-1107-C1


アーティスト【リトル・ウィリー・リトルフィールド】

Willie Littlefield, Jr.,:R&Bおよびブギウギのピアニスト兼シンガー。初期の録音は「ブギウギとロックンロールの重要なつながりを形成した」と称される初期のR&B・ミュージシャンである。リトルフィールドは、1949年に18歳でMODERNレコードからデビューシングル「It's Midnight」で三連符ピアノスタイルを普及させたとき、10代の天才と一夜にしてセンセーションを巻き起こしたと見なされた。彼はまた、1952年に「Kansas City」(元々は「K. C. Lovin'」としてリリース)の最初のバージョンを録音したことでも知られている。リトルフィールドはテキサス州エル・カンポで生まれ、母親と共にヒューストンで育った。1947年、16歳になる頃には、ヒューストンのダウリング・ストリートにある多くのクラブで地元の人気者になっており、地元のレコード店のオーナーで自身のレーベル「エディーズ・レコード」を経営していたエディ・ヘンリーのためにレコーディングを行っていた。彼は学校の友人であるサックス奏者のドン・ウィルカーソンと最初のバンドを結成した。リトルフィールドのスタイルに大きな影響を与えた他の人物としては、テキサスのミュージシャンであるチャールズ・ブラウンとエイモス・ミルバーンが挙げられる。彼の最初のレコーディング「リトル・ウィリーのブギー」は1949年にテキサスでヒットし、ロサンゼルスのMODERNレコードのジュールズ・ビハリの目に留まった。ビハリはエイモス・ミルバーンの成功に匹敵するパフォーマーを探していた。リトルフィールドはMODERNレコードに戻り、「イッツ・ミッドナイト」を録音した。この曲はビルボード R&Bチャートで3位にランクインし、続く「フェアウェル」は5位にランクインした。彼はナイトクラブの人気者となり、マックスウェル・デイヴィスなどの西海岸のミュージシャンとレコーディングを行った。リトルフィールドの学友で、彼のバンドのリードサックス奏者だったドン・ウィルカーソンもロサンゼルスへ行ったが、ミルバーンはすぐに彼を説得して、ミルバーンの新しいバンド、アラジン・チキンシャッカーズのリーダーにさせた。1950年に録音された彼の楽曲の一つ、「Happy Pay Day」はジャック・ホームズ作詞作曲で、後にホームズによって全く異なる歌詞で「The Blacksmith Blues」として書き直され、エラ・メイ・モースのヒット曲となった。1951年、リトル・ローラ・ウィギンズとのデュエット曲「I've Been Lost」はR&Bチャートで10位にランクインした。1952年、彼はKINGレコードの子会社であるFEDERALに移籍した。FEDERALでの最初のセッションでは、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーが作曲し、後にウィルバート・ハリソンが「カンザス・シティ」として再録音した「KC Loving」を制作した。1970年代後半、彼はヨーロッパをツアーして成功を収め、オランダに定住し、1982年から1990年代後半にかけてマーティン・ファン・オルデレンのオールディー・ブルース・レーベルから数枚のアルバムをリリースした。50年以上ツアーを続けてきたリトルフィールドは、2000年にツアーを終えた。移住先のオランダで5年間引退生活を送った後、2006年から再び演奏することを決意し、「5年間釣りをしていたので、今ではオランダのニシンの名前をすべて知っている。飽きてしまった。気分は最高だし、観客の皆さんと再会したい」と語っている。晩年、リトルフィールドは時折演奏を続け、主にイギリスのフェスティバルで演奏した。2008年には第20回バーンリー・ブルース・フェスティバルに出演し、2009年7月にはドーセット州スターミンスター・ニュートンで開催された第5回UKブギー・ウギー・フェスティバルにも出演した。2006年にはピーターバラ近郊のキャスター・ビレッジ・ホールにあるシェイクダウン・ブルース・クラブで演奏し、2010年10月にも再出演した。彼は2013年にオランダのフォールトハイゼンにある自宅で81歳で亡くなった。彼は癌を患っていた。。