The Beatles - Yesterday / Act Naturally (Re-Issue)
1971(1965) USA Re-Issue 45rpm Record [APPLE/5498]
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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1965年8月6日にアルバム『ヘルプ!』の中でリリースした曲での、1971年APPLEレーベル・リイシューです。米国ではアルバムは『イエスタデー&トゥデイ』に収録されています。ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品で、ビルボード・ホット100チャートで最高53位、UKシングルチャートで最高8位を記録しました。
George Martin
ポールマッカートニーによって書かれ、レノン&マッカートニーとしてクレジットされています。「イエスタデー」はある夜ポールが、夢の中で当時のガールフレンドであるジェーン・アッシャーと、彼女の家族が住むウィンポール・ストリートの家の部屋でメロディー全体を作曲しました。目を覚ますと、彼は急いでピアノに行き、忘れないように曲を演奏しました。恋愛関係の崩壊について歌われた憂鬱なバラードです。彼女は、彼が何かを言った為に彼女が去る前に、彼と彼の愛が一緒だった昨日を懐かしく嘆き悲しむものです。著名な音楽評論家や音楽学者による指摘では、「イエスタデイ」はレイ・チャールズ版の「ジョージア・オン・マイ・マインド」、もしくは、ナット・キング・コールやフランキー・レインで有名になった「アンサー・ミー、マイ・ラヴ」(原曲はゲルハルト・ウィンクラーとフレッド・ラウチによるドイツ語の歌)に無意識のうちに影響を受けているのではないかとも推測されています。
録音は、1965年6月14日にアビー・ロード・スタジオで行われました。「アイム・ダウン」の録音直後で、マッカートニーの23歳の誕生日の4日前です。マッカートニーのボーカルおよびアコースティックギターと弦楽四重奏曲のオーバーダビングは、本質的にマッカートニーの最初のソロ演奏となりました。
これまでに2,200バージョン以上のカバーバージョンが録音された、音楽の歴史の中で最も人気のある曲の一つです。「イエスタデー」は、1999年のBBCラジオ2の音楽専門家とリスナーによる投票で20世紀の最高の曲に選ばれ、MTVとローリングストーンマガジンにより翌年、史上最高のポップソングにも選ばれました。1997年、グラミーの殿堂入りを果たしました。BMIは、20世紀に700万回以上は再生されていると主張しています。
1965年10月にマット・モンローによるカバーが英国でトップ10ヒットとなりました。
20世紀を代表するポピュラー・ミュージックのスタンダード・ナンバーといえる名曲中の名曲です。
裏面はビルボード・ホット100チャートで最高47位を記録した両面ヒットです。
1963年にバック・オーウェンス&ザ・バッカルーズによって録音され、ビルボード・カントリー・シングル・チャートで第1位を記録した作品のカバーです。
リンゴ・スターの愛嬌あるボーカルとマッチした名バージョンです。
コンディション:VG++/VG++/WOL マトリックス番号:45-X-45319-F-1 / 45-X-45316-F-1 |
アーティスト【ザ・ビートルズ】
ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。