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Sixties 45

The Beatles - Starwberry Fields Forever / Penny Lane (Re-Issue)

1971(1967) USA Re-Issue 45rpm Record [APPLE/5810]

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¥2,200 JPY
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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1967年2月13日にCAPITOLレーベルからリリースした作品の、1971年5月APPLEレーベル・リイシュー・シングルです。

ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。


George Martin (center)

ビルボード・ホット100チャートで最高8位、UKシングルチャートで最高2位を記録した完全2サイダー盤です。ロックンロールの殿堂が選ぶ「ロックンロールを形成した500曲」の1曲として認定し、1999年には全米録音芸術科学アカデミーのグラミー殿堂入りを果たしました。ニューヨークのセントラルパークにあるストロベリー・フィールズ記念碑はこの曲にちなんで名付けられています。


ジョン・レノンが書いた曲で、レノン&マッカートニーとしてクレジットされています。曲はリバプールにある救世軍の児童養護施設であるストロベリー・フィールドの庭で遊んだ幼少期の思い出に基づいて書かれています。ザ・ビートルズのこれまでのシングルからの脱却を表し、当時のポップス・リスナーにとって斬新なリスニング体験をもたらしました。新興のサイケデリック・ジャンルに大きな影響を与えました。プロモーション動画も同様に革新的で、「ミュージック・ビデオ」という媒体における先駆的な作品となりました。この曲はザ・ビートルズがアルバム『リボルバー』を完成させた後に録音した最初の作品で、次作『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に収録される予定でした。

ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンはアルバム『スマイル』を完成させるのに苦労していた時期にこの曲を耳にし、「彼らはすでにやってくれた。私が『スマイル』でやりたかったことだ。もう手遅れかもしれない。非常に奇妙なレコードとして楽しんだが、弱ってしまった」と述べています。これはブライアン・ウィルソンのアルバム『スマイル』の制作意欲を低下させ、アルバム制作を放棄することにつながったいくつかの要因の1つでした。





裏面もヒットしており、ビルボード・ホット100チャートで最高1位、UKシングルチャートで最高2位、カナダのRPMチャートで最高1位を記録しました。2021年、ローリングストーン誌はこの曲を「史上最も偉大な500曲」のリストで280位にランク付けしました。2006年、モジョ誌はこの曲を「ビートルズの最も偉大な101曲」の9位にランク付けしました。

主にポール・マッカートニーによって書かれた曲ですが、レノン&マッカートニーとして登録されています。歌詞はリヴァプールの通り、ペニー・レーンをモチーフにしており、マッカートニーがこの街で育った思い出や光景や人物について描かれています。1966年後半にマッカートニーが初めてLSDを摂取しており、 曖昧で非現実的なイメージがいくつかある歌詞はLSDの影響が示唆されています。レコーディングは、1966年12月に出されたアルバム『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に収められる曲として行われ、詩の途中とコーラスの間に発生する多数の転調が特徴的です。

1967年のUS CAPITOL原盤と同じスタンパーを使ったプレスですのでおすすめです。

コンディションVG++/VG++/JS(DNAP)
マトリックス番号45-X-45870-F1 / 45-X-45871-F11

アーティスト【ザ・ビートルズ】























ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。
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