Ir directamente a la información del producto
1 de 2

Sixties 45

The Beatles - Nowhere Man / What Goes On (Re-Issue)

1971(1965) USA Re-Issue 45rpm Record [APPLE/5587]

Precio habitual
¥2,200 JPY
Precio habitual
Precio de venta
¥2,200 JPY
- ポイント

↑獲得ポイント





20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1966年2月にCAPITOLレーベルからリリースした作品の、1971年APPLEレーベル・リイシュー・シングルです。

元々は英国内で1965年12月にアルバム『ラバー・ソウル』でリリースされた曲です。米国ではアルバム『イエスタデイ&トゥデイ』に収録されています。



ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。


George Martin with The Beatles


ビルボード・ホット100チャートで最高3位、カナダのRPM100チャートで1位を記録しています。この歌は後に映画『イエロー・サブマリン』にも登場しています。

ジョン・レノンによって書かれた曲で、レノン&マッカートニーとしてクレジットされています。ロマンスや愛とはまったく関係のないザ・ビートルズの最初の曲の1つであり、ジョン・レノンの哲学指向の作詞作曲の顕著な例として知られています。1965年10月21日と22日に録音され、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソンが3部構成で歌を歌います。リードギターのソロは、ハリソンとレノンによって同時に演奏されました。ギターの二人は、トラック上で同じ「ソニックブルー」色のフェンダーストラトキャスターを使用しています。ジョン・レノンの視座に根ざした深みのある歌詞により、これまでのザ・ビートルズ作品からの転換点となったとされる名作です。

裏面も1965年のアルバム『ラバー・ソウル』に収録されていた作品で、米国では両A面シングルとしてリリースされました。ビルボード・トップ100チャートで81位に達しています。

曲のオリジナルバージョンは、ジョン・レノンによって書かれたにクオリーメン時代の作品で、初期バージョンは「プリーズ・プリーズ・ミー」のフォローアップと見なされており、ビートルズは1963年3月5日にレコーディングする事を望んでいましたが、レコーディングには至りませんでした。



カール・パーキンスをイミテートした様なカントリー&ウエスタン風味のストレートなロックンロール・ナンバー!

両曲共にイギリスではシングルカットされておらず、イギリス本国ではチャートインはしておりません。

1966年のUS CAPITOL原盤と同じスタンパーを使ったプレスですのでおすすめです。

コンディションVG++/VG++
マトリックス番号45-X-45406-H10 / 45-X-45407-H10

アーティスト【ザ・ビートルズ】























ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。
No reviews