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Sixties 45

The Beatles - If I Fell / And I Love Her (Re-Issue)

1971(1964) USA Re-Issue 45rpm Record [APPLE/5235]

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20世紀の音楽史に残るイギリス出身の伝説のロック・バンド/ザ・ビートルズが、1964年7月20日にCAPITOLレーベルからリリースした作品の、1971年APPLEレーベル・リイシュー・シングルです。

ジョージ・マーティン・プロデュースによる作品です。

George Martin

ビルボード・ホット100チャートで最高53位、カナダのチャートで最高28位を記録しました。

1964年にイギリスではアルバム『ハード・デイズ・ナイト』 、北米ではアルバム『サムシング・ニュー』に収録されました。曲は主にジョン・レノンによって書かれた本格的なラヴ・ソングで、レノン=マッカートニーの功績とされています。レノンが歌う反復のない導入部分で始まり、その後に標準的な「ティン・パン・アレイ」のAABA形式が続きます。レノンとマッカートニーは「エヴァリー・ブラザーズのような緊密なハーモニーのために」1本のマイクを共有してレコーディングに挑み、ボーカルは2部構成のハーモニーで、レノンが低音を歌い、マッカートニーが高音を歌っています。

裏面は、主にポール・マッカートニーによって書かれた曲で、レノンとマッカートニーのパートナーシップの功績とされています。イギリスでの3枚目のアルバム『ア・ハード・デイズ・ナイト』の5曲目でした。

1965年にこの曲の性別を逆転させたエスター・フィリップスの「アンド・アイ・ラヴ・ヒム」は、ビルボード・トップ100チャートで54位に達しました。



ニルヴァーナのフロントマン、カート・コバーンによるソロ・バージョンが発見され、その後彼の伝記映画『カート・コバーン:モンタージュ・オブ・ヘック』で使用されシングル発売され、ビルボード・ホット100チャートで最高2位、UKシングルチャートで最高1位を記録しました。



珍しいリイシューです。レーベルの上部に「All rights reserved. Unauthorized duplication is a violation of applicable laws.」表記がない1971年プレスです。※以下の画像のAPPLEレーベルの1975年プレスも存在します。



コンディションVG++/VG++/JS(DNAP)
マトリックス番号45-45037-J15 / 45-45039-F12

アーティスト【ザ・ビートルズ】























ロック・グループ。1957年3月、クオーリー・バンク・スクールに通う16歳のジョン・レノンが結成したスキッフル・グループ/ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)~ザ・クオーリーメン(The Quarrymen)が前身となる。同年7月、15歳のポール・マッカートニーがギタリストとして参加。1958年2月、ポールの友人だった14歳のジョージ・ハリソンをジョンがオーディションし、数ヵ月後にジョージはリード・シンガーとしてグループに参加。1959年1月、友人が抜けてギタリスト3人トリオとなった彼らはジョニー&ザ・ムーンドッグス(Johnny & the Moondogs)を名乗りロックンロールを演奏。1960年、ジョンが通っていたリヴァプール・カレッジ・オブ・アートの友人スチュアート・サトクリフがベーシストとしてグループに参加。同年5月頃、スチュの提案でグループ名を The Beatles として活動。そしてリヴァプール出身の歌手 ジョニー・ジェントル のバッキングとしてスコットランド等をツアーで遠征し、同年7月より約一ヶ月の間は The Silver Beatles として活動。同年8月、ドラマーに恵まれなかった彼らは、当時の臨時マネージャー/アラン・ウィリアムスが手配したドイツ・ハンブルク公演のために、ピート・ベストを迎え入れて5人編成となり、その後約2年間はハンブルグを中心に活動。1961年1月、スチュアートは絵描きに専念する為、グループからの脱退を決意し、ポールがベーシストとなる。そして当時交流のあったドイツの音楽プロデューサー/ベルト・ケンプフェルトの提案で、歌手トニー・シェリダンのバックを努める。1961年6月に録音された「My Bonnie」はトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(Tony Sheridan & The Beat Brothers)名義でリリースされヒットした。ハンブルグでの人気を確立した彼らはその後再びリヴァプールに戻り演奏。同年11月にキャヴァーン・クラブにて、レコード屋店主で音楽評論家の ブライアン・エプスタイン と出会い、1962年1月にブライアンは彼らのマネージャーとなる。同年2月にDECCAレーベルのオーディションをうけるものの「ギター・グループは落ち目だ」という理由から不合格となったが、マネージャーのブライアンがEMIレーベルの音楽プロデューサー/ジョージ・マーティンとの交渉に成功し、同年6月に彼らはPARLOPHONEレーベルと契約する。6月6日には早速、アビーロードスタジオでの初セッションが行われたが、「ドラマーがヘタだ」という理由で、同年8月にロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ(Rory Storm and the Hurricanes)出身のドラマー/リンゴ・スターが新たにメンバーとして加入。それでもその時のセッションはジョージ・マーティンは気に入らず、スコットランド出身のセッション・ミュージシャン/アンディー・ホワイトのドラムスを起用し、「Love Me Do」と「P.S. I Love You」を録音した。同年8月にリリースされた彼らのファースト・シングル「Love Me Do」は全英シングルチャートで最高17位を記録する大ヒットとなり、その後テレビにも出演。マネージャーのブライアンの提案により、髪の毛は下ろし、揃いのスーツを着て、ステージでは悪態をつかず禁煙もし、演奏が終わればお辞儀をする…等々、クリーンな印象を持つバンドとしての売り込みにも成功しました。以降は解散を迎える1970年まで第一線で活躍し、ロック史/歴史に残る伝説のバンドとして君臨している。