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Sixties 45

Nancy Sinatra & Frank Sinatra - Somethin' Stupid / Give Her Love

1967 USA Original 45rpm Record [REPRISE/0561]

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20世紀を代表する名歌手フランク・シナトラの娘としても知られる女優で歌手のナンシー・シナトラが、そのフランク・シナトラとのデュエット企画作として、1967年3月にREPRISEレーベルからリリースしたシングルです。

ジミー・ボウェン&リー・ヘーゼルウッド・プロデュースによる作品で、ビルボード・ホット100チャートで4週連続1位、イージーリスニングチャートでは9週連続1位、UKシングルチャートで最高1位、カナダのRPMチャートで最高1位を記録しました。

C. カーソン・パークスによって書かれた曲で、元々は1966年にパークスと妻のゲイル・フットによってカーソン&ゲイル名義で録音された曲のカバーです。



フランク・シナトラは、娘のプロデューサーであるリー・ヘーゼルウッドに、娘と共に本作を録音したいと打診をしました。そして録音が決まり、ビリー・ストレンジをアレンジャーに迎え、クラウス・オガーマンが指揮するザ・レッキング・クルーの演奏で1967年2月1日にレコーディングが行われました。グレン・キャンベルとアル・ケイシーのギターをフィーチャーした、ブラジル・テイストのある軽快なポップ・デュエット・ソングとして仕上がった60's ポップス・クラシックスです。

本バージョンの後に人気曲となりカバーも出ましたが、日本では竹内まりやさんと大滝詠一さんによるデュエット・カバー「恋のひとこと」が秀逸です。



1995年、アリ・キャンベルと当時7歳だった娘のキビビ・キャンベルによるバージョンがUKシングルチャートで最高30位に達しました。



2001年、英国のボーカリスト、ロビー・ウィリアムズとオーストラリアの女優ニコール・キッドマンによるカバーバージョンが全英シングル・チャートで1位になりました。



裏面はフランク・シナトラのソロ作品です。

コンディション:VG/VG/WOL/SOL
マトリックス番号K-4818-1B / J-4661-1B


アーティスト【ナンシー・シナトラ】



白人女性ポップ・シンガー、女優。1940年ニュージャージー州ジャージーシティー生まれ。本名 Nancy Sandra Sinatra 。フランク・シナトラの娘。カリフォルニア大学在籍中に歌とダンスを習い、1961年に父親の所有したREPRISEレーベルより歌手デビューを果たす。初期はティーンポップ歌手として録音し、デビュー作の「Cuff Links and a Tie Clip」がヨーロッパと日本でヒット。しかし米国内ではヒットがなく、まだ無名の歌手として活動していたところを、1965年に音楽プロデューサー/リー・ヘイズルウッドと出会い彼女の運命は一転する。1966年には「These Boots Are Made for Walkin'」が一躍大ヒットを記録し、その後も「How Does That Grab You, Darlin'?」や「Sugar Town」等、1970年までに計21枚のヒット曲を連発する売れっ子歌手となっています。1972年以降はRCA VICTOR, PRAVATE STOCKレーベル他に録音があり、2010年代も現役活動中である。

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アーティスト
【フランク・シナトラ】



Francis Albert Sinatra (December 12, 1915 Hoboken, New Jersey - May 14, 1998) ジャズ、ポップ・シンガー、エンターテナー、俳優、プロデューサー。レコードの販売記録が多く、人気や影響力の点においても断トツでトップの20世紀を代表する名歌手。娘のナンシー・シナトラも言わずと知れた有名人。1935年~1939年の間にはハリー・ジェームス(Harry James)のバンドで歌手として活躍し、1939–1942年の間にはトミー・ドーシー(Tommy Dorsey)のバンドの歌手としてスウィング時代から人気を博し、1943年にCOLUMBIAレーベルに初録音を残した。1942–1945年の間には“シナトラ・マニア”と呼ばれる社会現象になるほどに人気を博し、第二次世界大戦中の兵役不合格となった為に米国内での音楽活動を継続した。1946–1952年の間には人気が低迷し、1950年には喉の疾患で一時声が出なくなりスランプに陥った。1953年には映画『地上より永遠に』に脇役として出演した事が再評価され、再び人気を取り戻し、CAPITOLレーベルに移籍した。ここではネルソン・リドルやビリー・メイ、ゴードン・ジェンキンズといった名うての編曲家によるサポートを受けただけでなく、円熟味を増したシナトラな歌唱力もあり、歌手としての黄金期を迎えたという評価も高い。1950年代後半には、サミー・デイヴィスJr.、ディーン・マーティン、ピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップ、ハンフリー・ボガートらとともに「シナトラ一家(Rat Pack/ラット・パック)」を組み、ラスベガスに自らが所有するカジノホテル=サンズ(Sands)を中心にツアーを行った。1961年には自身でREPRISEレーベルを立ち上げ、自身のレコーディングや、数多くのポップ・レコードを世に送り出し成功を収めた。1971年には一時引退を表明したものの、1973年には再び歌手業に復帰し、以後晩年まで活躍を続けた。1998年5月14日にビバリーヒルズの自宅で心臓発作を起こし死去した。